3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『娘よ』

 パキスタン、インド、中国の国境付近にそびえたつカラコルム山脈の麓に暮らすアッララキ(サミア・ムムターズ)と10歳の娘ザイナブ(サレア・アーレフ)。アッララキの夫は部族の族長だが、敵対する部族との手打ちの証として、ザイナブを先方の老族長に嫁がせることを決める。アララッキはザイナブを守る為、部族の掟を破り村からの脱出を図る。監督はアフィア・ナサニエル。
  日本では初めて公開されるパキスタン映画だそうだ。素朴な作品かと思っていたら、思いのほかエンターテイメント度が高い。映画タイトルの出し方や、ファーストショット等からも、「映画」をやるぞ!という意気込みみたいなものが感じられた。ローカルでありつつ、エンターテイメントとして王道を目指している感じ。いかにして逃げるかというサスペンスとして見る側を引きつけ、勢いがある。「逃げる」という設定って汎用性があるなぁと妙に感心した。日本やハリウッド映画ではあまり見慣れない風景(都市部以外はとにかくだだっ広くて、ロングショットが映える)なので、ロードムービーとしても面白い。
 アララッキとザイナブのやりとりが、親子の細やかな情愛の感じられるものだった。ザイナブが学校で習った英語を、アララッキに教える様が印象に残る。アララッキが、TVドラマの時間だからそっちを見よう!と言うあたりからも、親子の距離の近さ、親密さが窺える。ザイナブは「子供」として可愛がられているのだ。
 ザイナブの言動が本当に子供としてのもので、結婚がどういうものなのかも、自分が置かれた状況もよくわかっていないということが、随所で示唆される。冒頭、子供の作り方についての友人とのやりとりや、アッララキにここで待ちなさいと言われたのに子犬を追いかけて勝手に動き回ってしまう様は、正に子供。親から引き離されて結婚なんて無理だし可愛そうと思わせるのと同時に、現状のよくわかっていなさにイラっとさせるあたりも、実に子供らしい。母娘の逃走に協力してくれるトラック運転手のソハイル(モヒブ・ミルザー)とのやり取りも、親戚の叔父さんや隣のお兄さんという感じで、単純に「子供」であることが強調されている。子供を結婚させることの無体さが際立ち、また、アッララキが捨て身で逃亡を図る理由も納得がいく。加えて、ソハイルに好意を示されても、アッララキは子供のことで手一杯でそれどころじゃないよなぁと腑に落ちもするのだ。
  部族間の闘争により殺人が起き、殺した人数はそっちの方が多いから不公平だ!という目には目をの価値観だったり、娘を差し出すことで調停を図ったりという、非常に前近代的な世界の話なのだが、さらっとスマートフォンが登場して不意を突かれる。現代でも、こういう世界があるところにはあるのだとはっとした。

『マイ・ビューティフル・ガーデン』

 毎日自分のルールに則った規則正しい生活をしているベラ・ブラウン(ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ)は、生き物が苦手。庭付きのアパートに住んでいるが植物の手入れは出来ず庭は荒れ放題だった。庭を愛する隣人のアルフィー・スティーヴンソン(トム・ウィルキンソン)は荒れたベラの庭が気に入らない。ある日、不動産会社から庭をきれいにしなければ退去させると言い渡されたベラは、アルフィーに助けを求める。監督はサイモン・アバウド。
 とても可愛らしく愛らしい作品。いわゆる名作秀作というわけではないが、ほっとする。アルフィーの庭が美しく(室内の観葉植物もいい)、ベラと同じく庭仕事興味がない私も楽しく見た。また、イギリス映画なのにと言っては語弊があるが、食事がちゃんとヘルシーそうかつおいしそう!アルフィーに雇われていたものの喧嘩別れをしてベラに雇われるシェフ・ヴァーノン(アンドリュー・スコット)が作る料理がカラフルで食べやすそう。ベラのいつもの食事は缶詰なのだが、徐々にヴァーノンの料理を食べるようになる様も可愛らしい。
 ベラはちょっと発達障害ぽい人で、『ザ・コンサルタント』のベン・アフレックを思い出した。決まった時間に決まった行動をしないと落ち着かず、料理の盛り付けも左右対称、同じ形の洋服を複数用意し着まわす等、行動パターンには類似が多い。もっとも、ベラは他人とのコミュニケーションは意外とちゃんと取れているし、冗談も言えるし、自分で小説を書くような創造性もある。ちょっと風変わりで、その風変りな部分が自分自身を窮屈にしていると言った方がいいかもしれない。
 庭造りの中で土や植物「無秩序」と接するうち、彼女が思う秩序とはまた違った形の秩序や美があることにベラは気付き、少しずつ心も行動もリラックスしていく。前述した食事の変化もその一つだが、家を出るときの一連の動作の変化も印象的だった。彼女は玄関がちゃんと施錠されたか心配するあまり、チェックしすぎて毎日仕事に遅刻してしまうのだが、ある時ぱっと飛び出ていく。理由も行動も他愛ないものなのだが、彼女の中では大きな変化なのではっとする。
 おとぎ話的な作品ではあるが、出演者が皆チャーミングで(基本悪人がいないし)気分よく見られた。ベラ役のフィンドレイは、ロセッティの女性像のような風貌で、レトロな服装が良く似合う。ちなみに舞台は現代なのだが、ベラの服装が妙にレトロなのだ。

『歩道橋の魔術師』

呉明益著、天野健太郎訳
1979年の台湾、台北。西門町と台北駅の間には、幹線道路に沿って立ち並ぶショッピングモール「中華商場」があった。歩道橋には子供達に手品を見せて手品用具を売る「魔術師」がいた。「ぼく」は旧友と会い、魔術師の記憶を呼び覚ましていく。
中華商場を舞台とした連作集。どれも大人となった「ぼく」「わたし」が子供時代を回想するという構造で、そのどこかしらに魔術師が登場する。過ぎ去ってしまった時代の、今はもう存在しない場所(中華商場は取り壊されている)を舞台としておりノスタルジックさが漂うが、その思い出、あるいはその過去から繋がる現在にはしばしば身近な人の死が関わっており、どこか影がある。子供時代の傷や後悔は、大人になってもずっと尾を引き時にその人を蝕み続けるという側面も感じさせるのだ。良かれ悪しかれ、子供時代の体験はその人の人生に影響し続ける。しかし、本作では子供の頃のどうということない日常の中に、ふっと魔法がかかる瞬間がある。この魔法がかかる瞬間を日常とシームレスにつないでいく、文章の平熱感がいい。この人にとってはそういうことだから、これはこれで真実だと思わせる。

『屋根裏の仏さま』

ジュリー・オオツカ著、岩本正恵・小林由美子訳
 20世紀初頭、相手の写真だけを頼りに日本からアメリカへ嫁いで行った「写真花嫁」たち。写真は全くの別人、現地では過酷な労働が待っていることも多々あったが、少しずつ、つつましやかではあるが生活は軌道に乗っていく。しかし日米開戦と共に日系人の強制収容が始まる。
 「わたしたち」という主語により語られる物語。「わたしたち」は嫁いで行った大勢の娘たちの声の総体であり、一つの声のようでいて多種多様なあり方を見せる。語りが合唱のようなハーモニーを形成しており、大きな声のうねりとなっていると同時に、実は「わたしたち」というものはなくて「わたし」が大勢いる、同じ「わたし」はいないのだと感じさせるのだ。対して、最後の章の「わたしたち」のみ、日系女性たちではなく、彼女らが町からいなくなった後に残った住民たち、日系ではないアメリカ人たちを指す。こちらは個人の声の総体ではなく、「わたしたち」という大きな主語の影に個人が隠れている。「わたしたち」は関わったが「わたし」は関わっていないというように、「わたし」という個人の要素を薄めているという対比がなされているように思う。「わたしたち」という主語のあやうさを含む機能を味わえる作品。

『ひるね姫 知らないワタシの物語』

 東京オリンピック開催が迫る2020年。岡山県の港町に住む高校生のココネ(高畑充希)は、車の改造ばかりしている父モモタロー(江口洋介)と2人暮らし。ココネは居眠りばかりしており、夢の中では魔法使いのエンシェン王女が青年モモと冒険を繰り広げていた。ある日、モモタローが理由もわからないまま警察に逮捕されてしまう。ココネは父が残したタブレットを手がかりに、幼馴染のモリオ(満島真之介)の力を借りて父を助けようとする。監督・脚本は神山健治。
 本作、神山監督が原案・脚本も兼任しているのだが、原案はともかく、脚本には専任者を立てた方がよかったんじゃないかなと思った。神山監督がシリーズ構成やストーリーまで手がけた作品を見ているとしばしば思うのだが、具体的なストーリーやテーマのボリューム設定が、物語の外枠と一致していないケースが多いように思う。時間的な尺や世界設定に対して、中身の要素が飽和状態になるというか、変なねじれを生じさせやすい印象がある。面白くないわけではないんだが、微妙に楽しめない部分が残る。このあたりは自分との相性の問題かもしれないが。
 本作では、ココネの家庭が抱えてきた秘密・問題を、彼女の夢とリンクさせていく。現実の問題をファンタジーと重ねて紐解いていくという構造は、ファンタジー作品の一つのパターンとしてとてもいいと思う。ココネの夢の中の世界のスチームパンク感滲むディティールや、諸々の機械仕掛けのデザインもいい。スチームパンク的世界になぜタブレット?という疑問が沸くのだが、そもそもこの夢の世界が何から生まれたものか、という部分への伏線にもなっており、これも納得。
 しかし、この夢・ファンタジーの部分と、ココネの現実世界で起きているトラブルとの摺合せ、シームレス加工があまり上手くいっていないように見える。主人公の身近な(家庭や友人関係などの)問題がファンタジーの中に形を変えて登場する、という構図が定番だと思うのだが、本作の場合、現実世界の問題のスケールが妙に大きいのだ。しかも、そういう理由でそんな強引なことやります?というもの。この人はなぜわざわざ、こんなリスキーな方法をとる(しかも不慣れっぽいのに)の?話の趣旨としては、ココネの日常と夢の中の冒険だけで収められそうだし、その方がファンタジーとしては際立ちそう。夢は見る人にとってはごくごくプライベートなもの、世界にとってはささやかなことだ。しかしココネ(と家族)にとっては大冒険のように壮大なものになりうる。その対比がいいのではないだろうか。本作では現実世界の大企業の陰謀の方が壮大になってしまい、メリハリがないのだ。
 作中の大企業、組織の描写に説得力がないというのも、奇妙な印象になっている一因かと思う。フィクションとしてのデフォルメの度合いをどのへんに設定したのかよくわからなかった。ちょっとコミカルというか、取締役の頭悪すぎないか?会長にしても、その立場でそのタイミングでそこに拘るのっておかしくない?別のやり方があるんじゃない?と突っ込みたくなるのだ。フィクションであっても、こういう組織なんですよという説得力があればいいんだけど、そのあたりが曖昧で雑に見えた。

『LION/ライオン 25年目のただいま』

 インドのスラム街で暮らす5歳のサルー(サニー・パワール)は、兄の仕事先についていった時、停車していた電車内に入り込んで眠ってしまい、そのまま遠くの地へと運ばれ、迷子になった。家族と生き別れ孤児院に保護された彼は、オーストラリアへ養子に出される。そして25年後、養父母の元で成人し順調な人生を歩んで生きたサルー(デヴ・パテル)は、ふとしたきっかけで生母と兄のことを思い出す。わずかな手がかりからGoogle Earthを使って故郷を特定しようと試み始める。監督はガース・デイヴィス。
 予告編等事前情報からは、なぜこの題名なのかはわからない。本編を見て題名の意味がわかると、ああそうか!と深く納得する。サルーが自分の人生を発見し直すまでの、長い旅の物語だったのかと。もちろん、養父母の元で過ごした日々も本物の彼の人生だ。しかし、人生の一部であって、養子になる前の幼い頃の人生については、裏付けが取れず曖昧なままだ。忘れたままなら、それはそれで穏やかな日々だったのかもしれないが、インドの菓子を目にしたことで、断片的な記憶がよみがえり、実母と兄を放っておいたという罪悪感に苦しむことに苦しむようになる。同時に、実母を求めることは養父母を裏切ることになるのではと、二重の罪悪感に駆られるのだ。故郷を探そうとするサルーの熱意は唐突に生じるようにも、少々行き過ぎているようにも見える。実際、日常生活に支障をきたし、恋人との関係も破綻してしまう。しかしサルーにとってはそのくらい、人生の一部が失われていることは苦しいことなのだろう。
 サルーは大きな不運によって「迷子」になったが、運の良さと機転とで生き延びる。本作、サルーの幼少時代に結構時間を割いているのが意外だったのだが、まだ幼い彼がどのような道筋を辿ってきたか垣間見ることで、本当に運が良かったのだと痛感する。あからさまには描かれないが、「ルート分岐点」でもし違う道を選んだらこうなっていたかも、という姿が、他の子供達の姿を借りて現れる。あっさり描いているようでいて、闇の深さが垣間見られるのだ。
 そういう「もしも」を一番強く感じたのは、養子先での義兄・マントッシュ(ディヴィアン・ラドワ)の存在だ。マントッシュはサルーより年長だが、養子に来たのは彼の後。順調に養父母とオーストラリアの生活に馴染んだサルーとは異なり、マントッシュは養父母との関係はぎこちなく、成長してからも土地に馴染めず、自分の生活を立て直すことができずにいる(子供の頃から精神的な問題があるという描写はされている)。サルーよりもむしろ、マントッシュの人生はどんなものだったのかという方が気になった。彼にとって、養子に出されたことは果たして幸運だったのだろうか。彼は、サルーが進んだかもしれないもう一つの人生なのだ。

『T2 トレインスポッティング』

 20年前に仲間を裏切り退勤を持ち逃げしたレントン(ユアン・マクレガー)は、全てを失い故郷のスコットランドのエディンバラに返ってきた。シック・ボーイことサイモン(ジョニー・リー・ミラー)はさびれたパブを経営する傍ら、売春や恐喝で金を稼いでいる。スパッド(ユエン・ブレムナー)は薬物依存を断ち切ろうとするも家族に愛想を尽かされ自殺を図る。ベグビー(ロバート・カーライル)は刑務所に服役していたが脱獄し、レントンへの復讐に燃える。原作はアービン・ウェルシュの小説、監督は前作に引き続きダニー・ボイル。
 はー20年か!と思わずため息をついてしまう。前作『トレイン・スポッティング』は当然劇場に見に行ったし周囲ではTシャツやらポスターやらクリアファイルやらが大流行りしていたし、サウンドトラックは当然買った。まさか今になって続編見ることになるとは・・・。見ている自分たちは当然年を取っているわけだが、作中のレントンたちもきっちり20歳老いているし、ユアン・マクレガー以外はそもそもスクリーンで見るのが久しぶりすぎる!皆、年取ったな・・・。その姿を見るだけで感慨深くもありしんみりさもあり。
 加えて、20年後の彼らは相変わらずジャンキー(スパッドは脱ジャンキーを目指しているが)で特に成長しておらず、社会的に成功しているわけでもない。見ている自分もレントンを笑えないくらい成長していないし生活はきゅうきゅうなわけで、しょっぱさ倍増である。前作では「未来を選べ」というフレーズが多用されていた。今回もレントンがヴェロニカに当時こういうフレーズが流行ったんだ、みたいなことを教えるが、当時の「未来を選べ」と今の彼にとっての「未来を選べ」は全く意味あいが違うだろう。20年前は、まだ未来は選び取るものとして、希望を孕んだものとしてあった。40代になった今、未来の枠は狭まり、先はそこそこ見えている。自分が選べるであろう中に選びたい未来などないにもかかわらず、選ばざるを得ないという辛さがあるのだ。これから世界を牛耳っていくのは自分達ではなく、ヴェロニカら下の世代なんだということが、レントンやサイモンに突きつけられていく。何者にもなれずに取り残されていくのは辛いのだが、それでもまた明日をこなしていなかなくてはならない。ラストのレントンの行動には、何だか泣き笑いしそうになった。結局そこに戻っちゃったなぁ。
 唯一前進した、未来を少し掴んだと感じられるのはスパッドだろう。本作の良心のような存在になっているが、彼は「書く」ことで自分と過去を相対化できるようになった。そうすると、未来も見えやすくなってくるのかもしれない。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』

 生身の肉体の「義体」への置き換えが進む未来。全身義体化する技術の成功例だが自身の記憶の殆どを失くした「少佐」(スカーレット・ヨハンソン)は、公安9課の捜査官。サイバーテロ事件を追う中で、義体化前の記憶が少しずつ呼びさまされてくる。監督はルパート・サンダース。
 士郎正宗の『攻殻機動隊』を原作とした押井守監督のアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のハリウッド版リメイク。原作漫画は知らなくても問題ないが、押井版は見ておいた方がいいかもしれない。ストーリー上云々というよりも、本作、押井版攻殻が好きでたまらない人があのシーンやこのシーンを実写で再現したい!という一念で作ったように見える。あまりにそのまんまでびっくりしたシーンがいくつかあった。原作へのリスペクトってそういうことか?映画としてそれでいいのか?と疑問には思うが、てらいながさすぎて強く非難する気にもならないんだよな・・・。あー本当に押井監督作品好きなんだなってことはよくわかる。アパートの名前とか、犬の名前とか、そこまで目配せしなくてもいいんですよ!って気分にはなったが。ある種のファンレターと言えなくもないが、これ貰った方も微妙だよな・・・。
 本作中の日本の都市の造形は、今のSF映画(や小説など)の傾向からするといわゆる「なんちゃってTOKYO」風で古臭くもある。巨大な広告ホログラムやゲイシャロボット等、あえて悪趣味、キッチュな方向に振った造形なのだろうが、こういういかがわしさ、怪しさが好きな層は一定数いると思う。私もヘンテコな漢字とか蛍光色のネオンサインとかスラム風の市場とか、嫌いではない。リドリー・スコット監督『ブレード・ランナー』の影響が今現代まで続いているということを実感した。あれが一つの型になっているんだろうなぁ(押井版ももちろん、その影響下にあるわけだし)。
 ストーリーは押井版に則った上でオリジナルの設定、展開を入れたものだが、人間の身体、記憶に対する価値観は真逆と言ってもいい。本作では、この身体を通した体験・記憶にこそ価値があるという方向性で、押井版ほど抽象的な方向にはいかない。本作の作家性なのか、それともハリウッドのエンターテイメントとしてはこのあたりが妥当だという判断なのだろうか。本作の時代設定が、おそらく押井版よりももうちょっと前になっていて、全身義体に付加価値が高いというのもポイントか。義体のオンリーワン性が高い(だからわざわざ美しいスカーレット・ヨハンソンのボディなのかと)。義体開発者のオウレイ博士(ジュリエット・ビノシュ)が少佐の義体に愛着心を持つのも、そういった背景があるからだろう。まだ、(人工のものであれ)「身体」に対する信頼、執着が強い世界なのだ。
 ストーリーは大分ユルいし、SFとしても作品世界の科学技術の度合いとか組織の構成とか、行き当たりばったり感は否めない。もうちょっと頑張ればいいのに(特に少佐の元の体を巡る経緯は、より掘り下げられそうな部分ではある)と思わずにはいられない。ちょっと色物っぽい作品ではあるが、カルト的に一部で愛される、というか嫌われなさそうな気がする。なお日本人キャストについて、ビートたけしの佇まいは見ていてちょっと笑っちゃいそうになったが、桃井かおりが好演していて、予想外の良さがあった。

『その雪と血を』

ジョー・ネスボ著、鈴木恵訳
殺し屋のオーラヴ・ヨハンセンは、ボスから新しい依頼を受ける。ターゲットは浮気をしているらしいボスの妻。いつものように仕事をこなすつもりだったが、彼女の姿を見た瞬間、オーラヴは恋に落ちてしまう。
著者の作品は結構なボリュームがあるというイメージだが、本作は比較的短い。しかし濃度は高い。殺し屋とファム・ファタール的美女という古典的なノワール小説の装置だが、陰影が深くとても魅力ある作品。主人公オーラヴは難読症で、文字の読み書きは困難、かつ数字の計算が出来ない。「普通」の仕事が出来ない彼が唯一こなせるのが殺しなのだ。とは言え、読んでいるうち、オーラヴは読み書きは苦手だが小説、物語に愛着があり、文学の素養を持つことがわかってくる。オーラヴは自分の物語が欲しいのだ。何も持たなかった彼が、自分自身の物語を生きられるかもしれないと思ってしまったことで、彼の人生が大きく変わってしまうとも言える。生き方を変えられるかもしれない、別の居場所があるのかもしれないという可能性が全くない人生は、あまりにも苦しい。その可能性を追うことが自滅行為だったとしても。クリスマスの時期のノルウェーの寒々とした情景と、オーラヴの仕事の凄惨さ、そしてわずかなセンチメントが入り混じり、はかなくも印象深いノワール小説。

『サラエヴォの銃声』

 2014年6月28日、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件から100周年の記念式典を控えたサラエヴォ。式典が行われるホテル・ヨーロッパでは、ホテル支配人やフロントマネージャーが準備に余念がない。同時に、従業員の間では賃金未払いに対するストライキが計画されていた。演説の練習をするVIPや、サラエヴォ事件について対談企画を収録中のTVスタッフとジャーナリスト等、様々な人々が行きかう群像劇。監督はダニス・タノヴィッチ。
 舞台をホテル内に限定した群像劇なのだが、屋上からの街の景色が挿入されるからか、意外と閉塞感はない。職業上のポジションとしても、経済格差としても、民族的な背景としても、様々な人たちが交錯していくが、それぞれの物語、物理的な動線のさばき方の手際がいい。もっとコンパクトにできたんじゃないかなと(本作も90分程度なので相当コンパクトではある)思うくらい。こんなにスピーディかつ整理された映画を撮る監督だったのか!と驚いた。先日見た『汚れたミルク あるセールスマンの告発』は語りの方法のユニークさに目がいったが、手際がいいという印象ではなかったので。物語の内容によって見せ方をどんどん変えてくるタイプなのか。そういえば、一貫した作風というものはあまり強くない作家性ではあると思う。
 登場する人たちはホテルの中を行ったり来たりするが、それぞれが何かしらの問題を抱えており、その多くは自分では如何ともし難い。その問題故に、対立する人たちもいる。そして対立の焦点となっている問題は、そうそう解決しそうにないし双方が妥協する接点も見えてこない。ホテル支配人と従業員の意見は平行線をたどるだろうし、TVキャスターとジャーナリストも、お互いに許せない部分がある。危ういバランスで全てが推移していくのだ。
 こういった、お互いに相入れない部分を孕みつつも、様々な集団が同じ場で何とか生活している、というのが現在のこの地域ということなのだろう。サラエボ事件以降(いやそれ以前からか)、ずっとバランスがぐらつきつつ(時に大きく乱れるが)なんとかかんとやっている、という感じなのだ。ホテルの中の人の行き来は、外の世界の影絵のようでもある。

『レゴバットマン ザ・ムービー』

 レゴの世界でもヒーローとして活躍しているバットマンことブルース・ウェイン(ウィル・アーネッ/山寺宏一ト)。孤独なヒーローとして人を寄せ付けない彼の元に、彼に憧れるロビンことディック・グレイソン(マイケル・セラ/小島よしお)が養子になろうと押しかけてくる。更に自称宿敵のジョーカー(ザック・ガリフィアナキス/子安武人)が異次元に閉じ込められていた悪者たちを脱走させ、ゴッサムシティを大混乱に陥れる。監督はクリス・マッケイ。
 前作『レゴ・ザ・ムービー』はレゴという玩具の性質をフルに活かしたレゴのメタ映画とでも言える作品だったが、本作はレゴ要素は薄れている(クライマックスでレゴならではの「修繕」方法が披露されたりするけど)。本作はバットマンが主人公どころかテーマになっており、バットマン、ひいてはヒーローVS悪役というフォーマットに対するメタ映画と言えるだろう。正直なところ、バットマン関連としては直近の作品になる『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』よりはよっぽどバットマンという存在に迫っており説得力がある。ビジュアルはレゴだししょうもないギャグも満載なのだが、バットマンが抱える孤独、それが何に由来しているのかということ、そしてそれをいかに乗り越えるかということをちゃんと描いているのだ。
 序盤、バットマンが孤独であるという演出がこれでもか!と積まれてくる。様々な映画の中で、電子レンジを使うシーンというのはしばしば出てくると思うのだが、今まで見てきた中で本作の電子レンジシーンが一番心に刺さる。つ、辛い!バットマン本人がその辛さに気付かないようにしているのがまた辛い!バットマンが自分のまわりに壁を作るのは、子供の頃に両親を理不尽な形で亡くしているから、というのは基本設定だと思うのだが、本作ではそれに加え、人との距離感が上手く測れない社交下手な要素が乗っかってくるので、彼のイタさが何だか身につまされるのだ。スーパーマンの自宅を訪ねるエピソードでは、「シンプルに人柄と人徳の差だよ」ということが露呈されていてまあ辛い。
 辛いと言う面では、ジョーカーの辛さも描かれている。ジョーカーは言うまでもなくバットマンシリーズ最大の悪役で宿命のライバル的な存在だが、そもそもバットマンが彼のことを「宿命のライバル」と思っていないと、ジョーカーの立ち位置は揺らいでしまう。相反する相手の存在によってしか存在することができない、悪役の悲哀(それはヒーローの悲哀でもあるのだが、バットマンはそれをよくわかっていない)があるのだ。ジョーカーがある意味一途な片思いをしており、なかなかに不憫。

『ジャッキー ファーストレディ最後の使命』

 1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領はダラスでのパレードの最中銃撃され死亡。ジョンソンが新大統領に就任し、ホワイトハウス内が急速に次期政権に移行する中、ケネディの妻ジャッキー(ナタリー・ポートマン)は夫の名前を後世に残すべく葬儀に全てを賭ける。監督はパブロ・ラライ。プロデューサーはポートマンと『ブラック・スワン』で組んだダーレン・アロノフスキー。
 プロデューサーとは言え、アロノフスキーの味わいが強く出ているように思う。『ブラック・スワン』と同様、ポートマンが演じるのは自分自身(ジャッキーの場合は夫の付属品としての自分)を虚構として完璧に作り上げようとする女性だ。本作は、記者がジャッキーの元に取材に来て、取材の中でジャッキーが事件を振り返り語るという構成になっている。ジャッキーは記者に度々、ここは書かないで、こう書いて、と指示を出す。彼女が語るのは国民が知るべき真実であって、事実ではないと言える。ケネディは政治上の大きな功績は残していないというのが、 ジャッキーも認める政界の共通認識だった。それを越えて人々の記憶に残る歴史になるには、一種の伝説、神話を作り上げるしかない。ジャッキーが参考にするのがリンカーンの葬儀だというのには、彼女の並々ならぬ本気度が窺える。彼女はメディアの力も良く理解しており、映像として強力な記憶を作る事がケネディを、ひいては自分や子供達を守ることになると考える。先見の明があるのだ。
 しかし夫と共にアメリカの神話になるということは、生身の自分を葬るということにもなりかねない。本作には死の影が常にまとわりつく。冒頭から重低音の不協和音が響いて不穏この上ないのだが、これはケネディが暗殺されるということと同時に、ジャッキーが既に死者、死んで「神話」になったものとして振舞うからであるからのようにも思った。
 ポートマンの演技に凄みがあり、ジャッキーという人間を様々な面から見せる。ホワイトハウス紹介番組出演時のいかにも「ファーストレディ」的な振舞や、夫の暗殺でショックを受け憔悴する姿、葬儀の手筈を整える行動力、そして記者と対峙する強かさ等、これまでのジャッキーのオフィシャルイメージとは一線を画しているように思う。アカデミー賞主演女優賞はポートマンの方がふさわしかったのではないか。

『ムーンライト』

 マイアミの貧困地域に暮らすシャロンは、小柄で内気なことから学校ではいじめられていた。母ポーラ(ナオミ・ハリス)は仕事で不在がちなことに加え麻薬の常習者で、子供に構う余力がない。シャロンを気に掛ける大人は麻薬ディーラーのフアン(マハーシャラ・アリ)だけだった。10代になったシャロン(アシュトン・サンダース)は親友のケヴィン(ジャハール・ジェローム)に強い思いを抱くようになるが、誰にも言えずにいた。監督はバリー・ジェンキンス。第89回アカデミー賞作品賞、脚色賞、助演男優賞を受賞。
 シャロンの3つの時代を3人の俳優が演じる。小学生くらいの「リトル」、ティーンエイジャーの「シャロン」、大人の「ブラック」(トレバンテ・ローズ)、どれも素晴らしかった。3人は顔かたちがすごく似ているというわけではないのだが、流れの中で見るとちゃんと同一人物に見える。シャロンからブラックへの飛躍がすごいのだが、自衛の為にこうならざるを得なかったということが分かるので切ない。出演している俳優は総じて好演でとてもよかった。
様々な愛を目にするラブストーリーで、誰かを思いやる態度、誠実さの表出の仕方が素晴らしい。シャロンの3つの時代は、彼が(おそらく数少ない)愛を他者から受けた部分を切り取ったものではないかと思う。フアンは大人の男性として、父親のような愛をシャロンに向ける。彼に食事をさせ、海に連れ出して泳ぎ方を教える。学校にも家庭にも居場所がないシャロンにとっての避難所のようになってくれるのだ。シャロンが「オカマって何?僕もそうなの?」と質問した時の答え方は、子供に対する誠実さのある真剣、かつ非常に配慮されたものだと思う。しかし、フアンの仕事は麻薬のディーラーであり、シャロンの母親もフアンが売る麻薬によって蝕まれていく。この点のみ、フアンはシャロンを裏切っていると言えるだろう。シャロンに対する思いやりは、罪悪感からくるようにも見えるのだ。シャロンが自分内で納得してしまったことがわかる別れのシーンが切なかった。
また、ケヴィンのシャロンに対する態度も愛(友愛であれ性愛であれ)があふれるものだ。ケヴィンは社交的で女の子にもモテる、シャロンとは別のグループの生徒。それでも不良グループに絡まれるシャロンをいつも気に掛けている。彼の肝心な所をはずさない距離感は、シャロンにとって得難いものだ。だからこそ、ある事件の顛末が痛ましい。シャロンにとってはケヴィンを守る為でもあるが、ケヴィンにとってはシャロンへの裏切りになる。シャロンは2度、愛した人に裏切られるわけだ。
シャロンはケヴィンと成人後に再会する。シャロンの風貌にも振舞にもかつての弱弱しさはないが、ケヴィンの前ではかつての繊細な少年の顔を見せてしまう。その変わらない部分を、ケヴィンがちゃんと見つけていることにたまらなくなった。2人の言葉の選び方、動作の選び方の慎重さに、時間の流れとお互いの中に残り続けるものとを感じる。

『未来よ、こんにちは』

 高校の哲学教師をしつつ、自著の執筆や教科書の編集にも携わっているナタリー(イザベル・ユペール)は、同じく教師の夫と暮らしている。2人の子供は独立し、仕事も充実していたが、夫から離婚を切り出される。また年老いた母の依存が強まり、施設に入れざるを得なくなる。監督はミア・ハンセン=ラブ。
 夫に離婚を切り出されたナタリーはびっくりするが、泣いたり騒いだりはしない。ただ、「死ぬまで一緒にいると思っていたのに」とつぶやく。離婚は彼女にとってショックなことではあるが、それはそれとして仕事も生活も続けていくという姿勢が好ましい。ユペールの佇まいがすごくいいというのもあるのだが、凹むことがあっても、時間がたてばちゃんと大丈夫になるし、自分を失うほどには心を乱されない人というのは、見ていて安心する。
 ナタリーは夫との離婚は冷静に乗り切ったように見えるが、それ以上に母親の老いに心を乱される。これは見ていて身につまされた。どちらが大変かで言ったら、母親の方が夫(元夫)より厄介だ。感情の揺さぶられ方も無意識に縛り付けられている度合いも、夫の比ではない。疎ましくもあるがやはり愛しているし愛されたい、そして母親が今の自分を作ったという自覚もある。だからこそ面倒なのだ。ナタリーと母親の関係は、若い頃からこんな調子だったんだろうと思わせるものでげんなりもするが、母が娘を誇りに思っていたこともよくわかるので、そこがやるせない。
 冒頭、ナタリーが出勤すると、高校でデモが起きており校舎に入れない。デモに参加している若者たちにこんな時に授業をやるのかとなじられると、彼女は「私は教師だから授業をする権利がある」と言い、授業を続ける。生徒に政治的スタンスを尋ねられても、授業でそれは話さないと言う。ナタリーがどのような姿勢で仕事をしているのかわかるエピソードが随所にあった。元教え子に、先生は哲学者としての思想と行動が一致していないと指摘されると、おそらく痛い所を突かれたという気持ちもあるにはあるのだろうが、「生徒が自分で考えられるようにするのが私の仕事。あなたに関しては成功した」と返す。彼女は学者である以前に気持ちの上では教師で、自分の仕事を愛している。こういう姿勢でいられる人は羨ましい。出版コンサルタントとのやりとりから、彼女の仕事のあり方も、時代の中で変わりつつあることも垣間見られるのだが、彼女を慕う生徒はこれからも出てくるだろうし、彼女が生徒や元生徒を家に招くこともあるんだろうなと。
 所で、エリック・ロメール監督の『緑の光線』の中で、ヴァカンスを一人ぼっちで過ごすなんて良くないと友人たちが主人公に世話を焼いてくれるが、フランスでは女性がヴァカンスを一人で過ごすことに、あまりいいイメージがないのかな?本作でも、元教え子はおそらくナタリーのことを心配して山に誘っているんだろうし。『緑の光線』の主人公は若い女性で、ナタリーは壮年であるという違いはあるが。

『劇場版 黒子のバスケ LAST GAME』

 ウィンターカップで優勝し念願の全国制覇をした誠凛高校バスケ部。黒子テツヤ(小野賢章)と火神大我(小野友樹)は2年生になり、夏のインターハイが終わる頃、アメリカのストリートバスケチームJabberwork(ジャバウォック)が来日。強烈な強さを見せつける一方で日本のバスケを馬鹿にする彼らに、黒子と火神、そしてキセキの世代と呼ばれた選手たちがドリームチームVORPAL SWORDS(ヴォーパル・ソーズ)を結成し試合に挑む。原作は藤巻忠俊の大ヒット漫画の続編『黒子のバスケ EXTRA GAME』。監督は多田俊介。
 何かあらすじ書いているうちに空しくなってきたんだけど、とりあえずすごい強くて悪い奴(本当にあっけらかんと悪くて背景説明とかほぼないあたり潔い。90分尺なのでこれで十分だと思う)が来る、バスケで勝負、というシンプルさ。とは言えシリーズのボーナストラックにして真の完結編的作品なので、やはり単品で見るのは厳しいだろう。逆に、個々のキャラクターの成長を見ることが出来るので、原作ないしはTVシリーズを見てきたファンには十分満足できる内容だと思う。少なくとも私はすっごく楽しかった。
 見ている間ずっと、あージャンプっぽい!ジャンプのバトル漫画っぽい!(というか実際ジャンプの漫画なんだけど)という強烈なジャンプ臭のようなものに襲われ、自分の体にジャンプ成分が染みついていることを再確認する羽目に。ジャンプ的な対戦もの、キャラクターの立て方のお作法を踏まえつつ、妙に地に足がついた部分もあるところが本シリーズの面白さだったと思う。根っこにある「バスケが好きか」という部分がブレない。ジャバウォックと対戦するのも、「日本の」バスケを馬鹿にされたからではなく「(上手い下手関係なく)バスケをする人」を馬鹿にされたから、というニュアンス。真面目にやっている人を馬鹿にしない、好きなことは(才能の度合いと関係なく)一生懸命やるといい、というシンプルな所が踏まえられているあたり、いい少年漫画だと思う。
 原作(とTVシリーズ。原作を最後までアニメ化しているので)は週刊少年ジャンプ連載の人気作品としては例外的なくらい、引き延ばさないきれいな終わり方をしている。番外編とも言える本作は蛇足では?とも思ったのだが、本作のラスト、いや蛇足ではないな、これが本当の完結編だなと深く納得した。文字通り「黒子のバスケ」の話であり、彼のバスケが周囲をどのように変えてきたかという話を最後までやったんだなと。
 なお、キャラクター人気に寄るところが大きい作品と思われがちだが、作画面ではキャラクターの一枚画の美麗さを見せようという意図はあまり感じない。あくまで試合の中での動きで魅せたい、そこにキャラクターの魅力が一番発揮されるはずという姿勢が感じられた。

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