3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『エイリアン コヴェナント』

 地球が滅びつつある時代、人類移住計画を託された宇宙船コヴェナント号には、コールドスリープ状態の乗組員の他、長い航海の間、船の管理を任されているアンドロイド・ウォルター(マイケル・ファスベンダー)が乗船していた。しかし船にトラブルが起き、乗組員たちは予定外にコールドスリープを解除される。人間からと思われる信号を辿り未知の惑星に辿りつくが。監督はリドリー・スコット。
 私はエイリアンの造形とシチュエーション(密閉空間で次々に襲われる系)がとにかく苦手で、エイリアン3部作はTVで放送されている時にちらっと見ている程度(しかし『エイリアンVSプレデター』は劇場に見に行っていることを思い出した・・・あれはちょっと別枠ですよね)、前作『プロメテウス』は当然見ていない。更にリドリー・スコット監督作品自体が苦手で、はっきりと面白いかつ好きだと思えたのは『オデッセイ』のみ。しかし本作を見た人たちの反応がどうにもおかしなことになっているので、気になって挑戦してみた。
 結論から言うと、エイリアン初心者の目からも「それ、エイリアンいります・・・?」的案件だったように思う。確かに、前3部作におけるエイリアンがいかに生まれたかという話ではあるのだが、それ以外の部分に熱が入りすぎていて、『エイリアン』的部分が取って付けたような作り。ホラー映画のお約束的展開で、意外性もないしなぜいきなりこれを?という疑問ばかり膨らむ。SFとしても『オデッセイ』撮った(まあ原作が良くできていたわけだけど・・・)人とは思えない杜撰さ。近年のSF映画では、未知の惑星に降り立つ時には(大気の成分調査済みであっても)外気を遮断するヘルメットの装着はもはやセオリーだと思うのだが、本作はいきないノーヘル。これにはのけぞった。上陸後もそれは環境汚染では?逆に宇宙船内を汚染することになるのでは?と突っ込み所がありすぎる。つまり、撮る側がこういう部分はわりとどうでもいいと思ってるんだろうなぁ・・・。
 本作のメインはデイヴィッドの創造主病というか、クリエイションに対する妄執だろう。オリジナリティは持たないはずの「作りもの」が自分の創造主をエサにして新たな創造主になろうとするわけだが、それをエイリアンと絡める必然性て、あまり感じないんだよな・・・。
 なお俳優陣に関してはファスベンダー独り勝ち。ウォルターとデイビッドをちゃんと演じ分けているのには感心した。そもそもファスベンダー以外を魅力的に撮ろうという意欲が見受けられない。

プロメテウス [Blu-ray]
ノオミ・ラパス
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2013-07-03





『僕のワンダフル・ライフ』

 ゴールデン・レトリバーの子犬ベイリーは、自分を助けてくれた少年イーサンと固い絆で結ばれていた。やがてイーサンは成長し、ベイリーとはなかなか会えなくなる。ベイリーは寿命を終えるが、イーサンに会いたい一心で生まれ変わりを繰り返すようになる。原作はW・ブルース・キャメロンの小説。監督はラッセ・ハルストレム。
 犬の輪廻転生ってスピリチュアル系にしても大分うさんくさいなー大丈夫かなーと思っていたが、手堅くまとめており老若男女、子供連れでも大丈夫そう。さして犬好きでない私も面白く見た。犬視点のモノローグで話が進むのは一歩間違うとあざとすぎ、人間化しすぎで下品になりそうだが、ぎりぎりのラインで踏みとどまっている。また、冒頭でいきなり「犬生」が一回終了し、あっ野良犬に生まれるってそういうことなんだ・・・とシビアさをさらっと見せてくる。このあたりのさじ加減が上手い。ハルストレムは大概手堅い作品を撮るが、職人気質なのかな。1960年代~現代という時代の動きがそれとなく感じられるあたりも、目配りがきいており手堅い印象だった。
 シビアという面では、人間たちの人生も実はそこそこシビアである。ベイリーはイーサンが大好きなので、ベイリーの目を通して見たイーサンはいつも輝いているように見える。が、ベイリーには理解できなくても、人間である観客の目から見ると不穏な気配が見え隠れする。ベイリーの父親は仕事に不満があり、徐々に酒が手放せなくなってくるのだ。ベイリーや母親への接し方も、特にひやりとするものがある。その顛末は予想通りだが、さらにやりきれない出来事も起きる。結構容赦ないのだ。
 また、転生したベイリーの飼い主になる警官(これは警察犬としてのつきあいなのでペットとは違うが)や黒人女性のエピソードも、犬と人間の関係にぐっとくるもの。それぞれが1本の映画になりそうなのだ。私は動物を飼ったことはないが、犬を飼っている(いた)人ならよりぐっとくるし人間側に共感するんではないかなと思う。
ただ、イーサンとの存在がベイリーにとって特別すぎて、他の飼い主がちょっとかわいそうでもある。どうしても二番手ないしはそれ以下の存在に見えちゃう。まあ愛は平等ではないものなんでしょうが・・・。特に警官とのエピソードなどなかなか渋くて良かったので、勿体ない。

HACHI 約束の犬 (Blu-ray)
リチャード・ギア
松竹
2010-01-27


クライム・ヒート [Blu-ray]
トム・ハーディ
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2016-11-25

『アウトレイジ 最終章』

 韓国滞在中の花菱会幹部・花田(ピエール瀧)がトラブルをおこし、日韓を牛耳るフィクサー・張会長(金田時夫)の手下を殺してしまう。張会長の保護を受け韓国にいた大友(ビートたけし)は花田を追い日本へ。一方、花菱会では会長の野村(大杉漣)と若頭・西野(西田敏行)の間で亀裂が深まっていた。韓国での事件を利用し、張グループもまきこみ花菱会のトップ争いが始まる。監督・脚本は北野武。
 前2作に比べると事件の全容というか、アウトラインがぼやっとしているなという印象。飛び抜けて頭がいい、悪賢い人がいるというよりも、全員そこそこの悪賢さで、小物が小競り合いをしているという印象だ(ただし張は別格の得体の知れなさを維持している)。野村はいくらなんでも組長として脇が甘すぎるように見えるし、それよりは上手であろう西野も、少々行き当たりばったりのように見える。元会社員と生粋のやくざの差が描かれていた。が、彼らの行動は分かりやすいと言えば分かりやすい。欲がはっきりとしており、ある意味単純。そして彼ら自身、相手も同じように欲を持っている、金や権力を志向して行動していると考えている。だからこそ、そこから逸脱していく大友の存在は不可解であり、薄気味が悪いのだろう。
 大友の行動原理はシリーズ1作目から一貫していると言えばしている。昔ながらの任侠道とは言い切れない(そこまで人情に篤くはなさそうだし、興味ない相手には心底興味がない)が、金で動くというわけでもなく、シマを広げたいというわけでもない。既に拠り所を失い、本作では更に幽霊のような存在としてふらふらとうろついているように見える。大友という幽霊が成仏するまでの物語であるようにも見えた。大友の行動原理は彼の内部にしかないので、傍から見たらえっそこで止めちゃっていいの?とあっけにとられるのだ。
 とは言え、悪い奴、悪くて現実的な奴は幽霊の存在など、多少薄気味悪いと思っても気にしないし、幽霊でさえ道具にして生き残りのし上がるのだろう。

アウトレイジ [DVD]
ビートたけし
バンダイビジュアル
2010-12-03


アウトレイジ ビヨンド [DVD]
ビートたけし
バンダイビジュアル
2013-04-12

『エルネスト もう一人のゲバラ』

 1962年、ボリビアからキューバのハバナ大学医学部に留学したフレディ前村エルタード(オダギリ・ジョー)は、キューバ危機の最中にチェ・ゲバラ(ホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ)と出会い心酔していく。やがて祖国ボリビアで軍事クーデターが起きる。フレディはゲバラの部隊への参加を決意する。監督は阪本順治。
 革命という言葉からイメージするような劇的なドラマはなく、1人の青年の大学生活、そして背景となる時代の動きを描く青春ドラマとして見た。特にキューバ危機をキューバはどのようにとらえていたのかと言う、内部からの視線は興味深かった。冒頭、ゲバラが広島訪問をするエピソードがあり、それをわざわざ入れるの?と思ったのだが、ここにつなげてきたのかと。
 青春ドラマとしても大分控えめ、情感抑え目で一見地味な作品ではあると思うし、時代背景をある程度知らないと何が起きているのかわからない(ゲバラがどういう人かということと、キューバ危機くらいは知らないときついかも)所もあるだろう。とは言え、フレディがどのような人であるか、ということはかなり丁寧に描いているように思う。
 フレディの行為に対して同級生が「彼の両親は立派だったんだな」とコメントするシーンがあるが、ああいった行為を親の教育、振る舞いの賜物と見なすんだなとはっとした。そういう感覚って、今はあまりなくなったんじゃないかなと。フレディの言動の端々から生真面目で責任感が強い人柄が窺える。そして、多少経済的に余裕のある、「ちゃんとしたおうち」に育ったということが徐々にわかってくる。
 ただ、彼の真面目さと経済的背景が、裏目に出ることもある。同級生に「君には本当の貧しさはわからないだろう」と言われるシーンがある。同級生はとにかく早く医者になって家族を食わせなくてはならないと必死で、フレディのように学生運動に参加している余裕はない。国のこと、政治のことは生活の余裕あってこそ考えられるということか。フレディは責任感によって行動しているわけだが、相手にとっては施しに見えることもある。そしてこのギャップが、最後にしっぺ返しとなってくるのだ。これは、ゲバラにも通じるものではなかったかと思う。断絶を埋めようとするものだったろう行為が、更に断絶を可視化し深めるものになってしまうのだ。
 フレディは個性が突出していたりカリスマ性があったわけではないが、道端の小石にすぎなくとも善良な一個人として生きようとしたのだろう。しかし、やはり何者かになりたかったんだろうなとも思える。呼び名として与えられた「エルネスト」の名は、与えた側にはさほどの意味はなかったかもしれないが、フレディにとってはやはり大きな意味があった。そこが何だかやるせなくもある。

チェ ダブルパック (「28歳の革命」&「39歳別れの手紙」) [DVD]
ベニチオ・デル・トロ
NIKKATSU CORPORATION
2009-06-12


KT 特別版 [DVD]
佐藤浩市
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
2002-11-22

『ドリーム』

 アメリカとソ連が宇宙開発でしのぎを削っていた1961年。バージニア州ハンプトンのNASAラングレー研究所には、ロケット打ち上げに必要な大量の計算を行う黒人女性のチームがあった。数学の天才キャサリン(タラジ・P・ヘンソン)、管理職志望のドロシー(オクタビア・スペンサー)、エンジニア志望のメアリー(ジャネール・モネイ)はそれぞれ優れた才能を持ちながら、黒人かつ女性であることで理不尽な境遇に立たされ、出世の道も閉ざされていた。監督はセオドア・メルフィ。
 冒頭、警察官とのやり取りの中で、キャサリン、ドロシー、メアリーが3人3様の対応のトラブルへの対応方法を見せる。この人はこういうスタンスなんだ、ということが簡潔によくわかる、上手い演出だ。誰のやり方が正解というわけではなくて、それぞれのやり方がある。そして、3人はお互いにそれぞれのやり方を尊重している。この「それぞれである」ということが、本作全体を貫く一つの柱にもなっているのだ。
 キャサリンたちは、頻繁に大雑把なくくりで括られ、偏見で判断される。黒人だから専門性の高い仕事は出来ない、女性だから働くことには向いていない、といったように。しかしそれらは、世の中が勝手に決めてそういうものだと見なしているというだけで、実際には黒人であろうが白人であろうが、女性であろうが男性であろうが、数学が得意な人も不得意な人もいる。千差万別なはずなのだ。それがなぜ、黒人だから、女性だからとひとくくりにされるのか。世間がそうしているから、これまでそうだったから、という以外の具体的な理由は見当たらない。「これまでそうだったから」ということの無頓着な暴力性は作中でしばしば目にされる。これまでのやり方に準じている側は、それが差別的なことであるとは気付かないのだ。だって「これまでそうだったから」。ドロシーの上司の「偏見があるわけじゃないのよ」という言葉(とそれに対するドロシーの返し)が象徴的だった。
 キャサリンたちが掴み取ったものは、彼女らの突出した才能による「特例」であったという一面は否めない。平等にはまだほど遠いのだ。メアリーの夫が彼女が出世しようとするやり方にイラつくのもわからなくはない(白人たちの土俵で彼らに認めて「もらう」ってことだから)。しかし、彼女らは自分たちの一歩が次の誰かの一歩に繋がる、その一歩が裾野を広げていつか本当に平等が得られるはずだと信じて進むのだろう。キャサリンの両親や教師たちもまた、次の誰かの為にと尽力したのだ。
 音楽と衣装がとても良い作品でもあった。いかにも60年代ぽい楽曲の数々はファレル・ウィリアムズによるものだが、ファレルの職人技を見た感がある。また、女性達のファッションが色とりどりで目にも楽しいし、着ている人のパーソナリティが垣間見える着こなしになっている。ドロシーがスタッフを引き連れて行進するシーンは圧巻だった。

ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち (ハーパーBOOKS)
マーゴット・リー シェタリー
ハーパーコリンズ・ ジャパン
2017-08-17


ライトスタッフ [DVD]
サム・シェパード
ワーナー・ホーム・ビデオ
2011-02-02


『スイス・アーミー・マン』

 無人島に漂着したハンク(ポール・ダノ)は絶望して命を絶とうとしていた。その時、波打ち際に男が打ち上げられているのに気づく。男は既に息絶えていたが、死体からガスが出ており動力源になるとに気付いたハンクは、死体をメニー(ダニエル・ラドクリフ)と呼び、共に「故郷」に帰ろうとサバイバルを開始する。監督はダニエル・シャイナート&ダニエル。クワン。
 この題名どういうことなの?邦題かと思ったら原題そのままなの?と思っていたらなるほどそういうことか・・・。文字通り「万能死体」なのだ。突飛なアイディアを思いつくのはもちろんだが、それをちゃんと映像として成立させる、俳優にちゃんと演じさせるという所に呆れたというか感心したというか・・・。予告編の段階でかなりどうかしているのだが、本編がそれを余裕で越えてくる所にすさまじさを感じる。普通、あの予告編だったら一番いい部分使っちゃったんだなって思うじゃん!序の口だった!ラドクリフの死体演技がとにかく素晴らしく、この人間違いなく上手い!(にしてもなぜこんな役を!)と納得させられる。アイディア一発勝負と思いきや、人生といかに向き合うかという話にまで推し進めている。力技ではあるがイマジネーションがさく裂している作品だ。
 ハンクは遭難して孤独の為に狂いそうになる。しかし、無人島で一人きりになる前から、彼は孤独だった。メニーという友人(ハンクの妄想に過ぎないようにも見えるが)を得て初めて、ハンクは自分の孤独さ、誰かと親密な関係を持ちたい、世間一般で言うような「人生を謳歌」するような体験をしたいという欲求に気付いていく。彼はメニーに人生ってこういうものだと話す内容は、実の所自分がそのような人生を送れていなかった、本当はそういう人生に挑戦してみたいんだという願望を持っていたということに他ならない。ハンクは故郷を目指すことで、あったかもしれない、これからありうる人生を掴もうとしているのだ。
 しかしそれに冷や水がかけられる。ハンクとメニーの友情も憧れも、傍から見たら狂気の沙汰であり、ある人にとっては恐怖に他ならない。この展開によりリアリティラインの設定が大分曖昧・混乱気味になっているので、映画全体の構成としてはどうなのかなとは思ったが、こういう展開にしたい、しないとならないという監督の意図もよくわかる。わかるだけに、非常に痛切だった。「やってみたかった人生」をたまたま出来なかった(機会があればできる)人もいるけど、そもそもできない人、そういう人生に縁のない人がいる。そして、そういう人生に縁がなくても、周囲から変人扱いされても、幸せな暮らしというものもやはりあるのだろう。ラストは、世間では理解されないだろうけど、でも幸せだったんだよ!というハンクとメニーの叫びのように見えるのだ。

フランケンウィニー DVD+ブルーレイセット [Blu-ray]
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2013-04-17


脳内ニューヨーク [DVD]
フィリップ・シーモア・ホフマン
ポニーキャニオン
2010-07-21


『まほろ駅前狂騒曲』

三浦しをん著
 まほろ市で便利屋を営む多田の元に、高校の同級生・行天が転がり込んで同居生活もはや3年目。地域密着型の便利屋として営業を続ける多田便利軒は、親族の見舞い代行やバスの運行チェック等も相変わらず引き受けている。ある日、行天の元妻が、2人の間に生まれた実の子を便利屋として預かってほしいと依頼に来る。
 シリーズ3作目にして完結編。同題名で映画化もされた(お勧めです)。今回は、行天がなぜ過去を一切口にしないのか、家族と疎遠なのか、子供を忌避するのか、その行動の根っこにある部分が明かされる。多田も行天も家族にまつわる傷を持つが、それぞれ形は違う。その傷を理解できる、共感できる等ということは言わない所が、2人の距離感のある種の折り目正しさを感じさせる(実際の言動はお互い失礼なことばっかりだけど・・・)。多田が行天に対して言えるのは、お前は大丈夫だ、お前を信じているんだということだ。本シリーズ、ユーモラスな中にも苦さ寂しさが滲むのは、過去の変えられなさが常にまとわりつくところにあるだろう。しかし同時に、過去は変えられないが傷は痕が残るとしても塞がる、人生やり直しは出来ないかもしれないが仕切り直しは出来る。行先がほのかに明るいのだ。はるという、問答無用で前を向いている幼い子供の存在にひっぱられてのことであるのはもちろん、これまでのシリーズで登場した人たちがそれなりに、あるいは何となく元気に生きている、その中に多田も行天もいるのだという時間の積み重ねによるところが大きいように思う。

まほろ駅前狂騒曲 (文春文庫)
三浦 しをん
文藝春秋
2017-09-05


まほろ駅前狂騒曲 DVD通常版
瑛太
ポニーキャニオン
2015-04-15

『政と源』

三浦しをん著
つまみ細工の簪職人の源二郎と元銀行員の国政は幼馴染。2人の年齢を合わせて146歳になる長年の付き合いだ。弟子やその恋人がひっきりなしに出入りし賑やかに暮らす源二郎と、妻が娘夫婦の家に行き目下一人暮らしの国政は、身近な人たちのちょっとしたトラブルに関わり合っていく。
おじいちゃんブロマンスだが、さすが著者というべきかツボを押さえており危なげがない。源二郎と国政は性格も価値観も、暮らし方も対称的で一見反りが合わなさそうだ。しかしなぜか馬が合い、お互いの違いも尊重している。頻繁にお互い行き来しているわりには、内面には立ち入らない所があるのは、友情の折り目正しさというか、親友でも他人であるという距離感を弁えているからだろう。そして夫婦もまた他人である。国政と妻との人生終盤になってからの軋轢、というか軋轢があることに国政が全く気付かない所は、「あるある」感抜群なのだが、家族だからという安心感に甘えてきたつけが回ってきたと言うことなのだ。そもそもそれが甘えだと気付いていない所が厄介なんだけど・・・。全般的に源二郎の造形の方がファンタジー寄りで国政の方が実体感あるのだが、自分の身近にどちらのタイプが多いかで見え方が変わってきそう。
政と源 (集英社オレンジ文庫)
三浦 しをん
集英社
2017-06-22


ぐるぐる♡博物館
三浦 しをん
実業之日本社
2017-06-16




『隠し部屋を査察して』

エリック・マコーマック著、増田まもる訳
 全体主義的な体制下で、隠し部屋に幽閉された人々を査察して回りその「罪」が語られる表題作、巨大な溝が出現し触れるものすべてを消失させていく「刈り跡」、古典本格ミステリと思いきや不可思議な領域に突入していく「窓辺のエックハート」等、奇妙な味わいの20編を収録した短編集。
 表題作である女性が「吐き出す」シーンのインパクトが絶大でそこばっかり思い出してしまう。この作品で隠し部屋に収監されている人たちは、非常にオリジナリティがあるというか、想像力が豊かで突出した人たち。作中世界ではその突出が罪とされるのだ。他の作品でも、過剰なオリジナリティ、やりすぎな妄想力を発揮する人たちが登場し、世界を奇妙な方向にねじまげていく。でも当人にとってはねじまげたのではなく、それがその人にとっての自然な状態なのだ。自然であろうとするとこの世の規範から見たら不気味なもの、許されないものになる。しかし、この世に合わせようとすると自分にとっては耐え難く不自然。このどうしようもない感じが全編に満ちているように思った。とは言え悲痛というわけではなく、不気味なものは不気味なまま、それはそれとして、という冷めたスタンス。そもそも世界は不可解で不気味なものであり、規範や常識の方が疑わしいのだ。

隠し部屋を査察して (創元推理文庫)
エリック・マコーマック
東京創元社
2006-05-20


パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)
エリック・マコーマック
東京創元社
2011-11-30

『ポルト』

 ポルトガル第2の都市ポルト。26歳のアメリカ人ジェイク(アントン・イェルチェン)とフランスから留学にきた32歳のマティ(ルシー・ルカース)は、考古学調査の現場でお互いを見かける。たまたま再開した2人は一夜の関係を結ぶ。監督はゲイブ・クリンガー。
 時系列はバラバラ、というよりもやや逆回転に近い構成で、2人の出会いへとさかのぼる。冒頭、マティにつきまとうジェイクの必死さと不穏さに、この2人の間に一体何が?とハラハラする。随所で挿入されるレストランのシーン、また後日そのレストランを個別に眺めるシーンからは、2人それぞれにとってそれなりにこの出会いは特別だったと察せられるのになぜ?と。
 見ているうちに、そもそも関係が破綻するほどの「何か」などなかったのではないかなと思えてきた。確かに2人の間に特別な出来事はあったが、それはあくまで劇的な瞬間があったにすぎず、後々まで継続するようなものではなかったのではないか。おそらくマティはそれに気付くが、ジェイクは気付かない。出会いのインパクトにずっと引きずられているのだ。そこを掘っても多分もう何も出ないよ、と言いたくなるが、特別な瞬間を味わってしまうとそうは思えないし思いたくないんだろうなぁ。
 人恋しさ、孤独さは人間の判断力を鈍らせるなと、見ていて辛くなる。ジェイクの寂しさはおそらく、マティのものよりもよりせっぱつまっているのだ。とは言え、あんな付きまとい方されたら、多少好意があっても怖くてもう会いたくなくなるよな・・・。ちょっと洒落にならない感じがした。
 全体としては良くできた学生の自主映画みたいな手作り感あふれる雰囲気で、初々しい。2人の関係をこのように描けた(臆面もなく一晩のアバンチュールって、最近なかなか見ないなと)のも、若さ故という気もする。

ビフォア・サンライズ/サンセット/ミッドナイト ワーナー・スペシャル・パック(3枚組)初回限定生産 [DVD]
イーサン・ホーク
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2015-12-02

コロンブス永遠の海 / わが幼少時代のポルト [DVD]
リカルド・トレパ
エプコット
2012-02-24


『夜の果て、東へ』

ビル・ビバリー著、熊谷千寿訳
 15歳の少年イーストは、ロサンゼルスの犯罪組織に所属し、麻薬斡旋所の見張り役をしていた。しかし警察が踏み込んできたことで、組織は複数の斡旋所やねぐらを捨てざるを得なくなる。イーストは責任を取る形で、ボスからある任務を命じられる。元大学生のウィルソン、コンピューターに精通した17歳のウォルター、そしてイーストの異父弟で13歳のタイと車でウィスコンシン州へ行き、ある人物を殺すのだ。英国推理作家協会賞最優秀長篇賞受賞作。他にも複数の賞を連続受賞しているがこれがデビュー作だというからすごい。
 今年読んだ翻訳ミステリの中では、もしかしたらベストかもしれない。賞総なめというのも納得。クライムミステリであり、2000マイルに及ぶロードノベルであり、少年の成長物語でもある。イーストの仲間3人は計画を遂行するために集められたメンバーにすぎず、経験豊富というわけでもない。イーストも言動は大人びているがやはり15歳、しかもこれまでの体験の範囲がかなり限られている15歳にすぎない。仲間とのコミュニケーションの取り方や反りが合わないタイに対する怒り等からは、彼が世の中に対してまだ不慣れである様、如才なさとは程遠い様が見て取れる。自分をコントロールできる部分と、できない部分の落差が痛々しくもあった。彼はそもそも、ロサンゼルスの自分が「見張る」エリアから出たこともないのだ。旅の過程で物理的に世界が広がっていく様と、イーストの内的な世界が初めての経験を経て広がっていく様が重なっていく。あったかもしれない、もう一つの「普通」の人としての生活を体験していくのだ。イーストがある夫婦のディナーに招かれた時、これがいわゆる家庭というやつなんだなと新鮮に驚く(というか学習する)シーンが強く印象に残った。つまり、彼はこういう普通さとは無縁だったんだなと。イーストは何度か大きな決断をし、自分の人生の方向を変えていく。最後の選択の先に広がる景色は、きっともっと広いはずだ。




プリズン・ガール (ハーパーBOOKS)
LS ホーカー
ハーパーコリンズ・ ジャパン
2017-05-17

『プルーストと過ごす夏』

アントワーヌ・コンパニョン、ジュリア・クリステヴァ他著、國分俊宏訳
プルーストの『失われた時を求めて』を、8人の筆者がそれぞれの切り口で解説する。テーマは個々の登場人物であったり、時間であったり、芸術であったりと様々。
8人はいずれもプルーストの熱心な読者で、研究書の出版や映像作品の製作を手掛けたいわば手練れだが、意外なほど読みやすく平易な書き方になっている。本作に掲載された内容は、元々、ラジオ番組(「~と過ごす夏」という教養番組シリーズがあるそうだ)の為の講演内容だそうで、間口は広く設定してある。プルーストというとどうも敷居が高いし、そもそも『失われた時を求めて』を完読したわけでもないし・・・としり込みしていたが、本作はむしろまだ読んでいないけどちょっと興味があるという人、今読んでいる途中だという人にお勧めしたくなる。『失われた~』の研究、批評というよりも、この作品にはこういう魅力がありますよ、プルーストはこういう意図を込めているんですよというナビゲーションとして機能している。私は『失われた~』は光文社古典新訳文庫で読んでいる為に、まだ読みかけなのだが、早く続きを読みたくなった。プルーストがちょっと身近に感じられる。特にプルーストの読書についての言及は、深く納得がいくもの。彼は読者、鑑賞者としても優れていたんだろうなとわかるのだ。

プルーストと過ごす夏
アントワーヌ・コンパニョン
光文社
2017-02-16


『スクランブル』

 高級クラシックカー専門の強盗、アンドリュー・フォスター(スコット・イーストウッド)とギャレット・フォスター(フレディ・ソープ)のフォスター兄弟。オークションで落札された37年型ブガッティを盗み出すが、落札者であるマフィアのボス・モリエールにつかまってしまう。モリエールは、敵対するマフィア・クレンプが所有する62年型フェラーリ250GTOを1週間で盗めば兄弟を見逃すと条件を出してきた。監督はアントニオ・ネグレ。
 ストーリーの密度はそんなに高くはなく、かつ脚本がスムースでない印象。伏線の回収に失敗しているのか、単に行き当たりばったりなのか判断に困る所が多々あった。前フリがなさすぎて後出しじゃんけんみたいに見えたり、そもそも時系列的につじつま合わなかったりするんだよな・・・。アクション部分以外のシーンのつなぎ方がなんとなくぎこちなく、流れが悪いのも気になった。なぜこの部分でこんなドヤ顔ショット?みたいな気分になるのだ。
 とは言え、気を抜いてのんびり見るにはちょうどいい塩梅。当たりの時の「午後のロードショー」感とでも言うか、気負わない楽しさがあった。別に、常に傑作名作映画を観たいわけじゃないもんね。
 何より、本作では実際に走り、カーチェイスをするクラシックカー(ブガッティはレプリカ、フェラーリ250GTOはリクリエーションモデルだそうだが、その他は本物を借りてきているそうだ)を見ることができる。車に詳しくなくてもフォルムの美しさは目に楽しいし、車に詳しい人ならなおさら面白いだろう。車が宙を舞ったり大回転したり次々にクラッシュするような派手さはないが、本作のような「走り」を見せるのが本来のカーアクションだよなぁ。舞台のマルセイユが風光明媚で、そこを華やかなクラシックカーが走っていくので実に絵になる。車を大切にしているカーアクション映画と言えると思う。登場人物のキャラクターはそんなにインパクトないのだが、それでいいのだ。

ミニミニ大作戦 [DVD]
マーク・ウォールバーグ
角川ヘラルド・ピクチャーズ
2005-11-16


キャノンレース [DVD]
アンドレス・バースモ・クリスティアンセン
ポニーキャニオン
2015-08-19

『幼な子われらに生まれ』

 40代のサラリーマン田中信(浅野忠信)と妻の奈苗(田中麗奈)はバツイチ同士の再婚で、奈苗の連れ後の薫(南沙良)と恵理子(新井美羽)と暮らしている。奈苗が妊娠し、3人目の子供の誕生を控えているが、信は左遷にあってしまう。また薫は信と距離をおくようになり、「本当のパパに会いたい」と言いだす。原作は重松清の小説。監督は三島有紀子。
 信は仕事で出世することよりも家族と一緒に過ごすことを優先するし、家族思いではある。しかし、大人になりつつある血の繋がらない娘との関係は難しいものになっていくし、奈苗の話を聞く心の余裕もなくなっていく。夫として、父親としての不完全さが露呈していくことになり、だんだん家に帰りたくなくなってしまうのだ。奈苗に対して、それを言ったら関係崩壊するぞというような言葉まで投げつけてしまう。
 それでも、信が幼い薫と恵理子の「父親になる」と決意するシーンはとても印象に残った。現在の彼は迷うことばかりだし家族の中には不協和音が充ちている。信も奈苗もいわゆる「出来た」人間ではなさそうだし、夫・妻としても親としても色々至らないところはある。それでも、この時の気持ちに立ち返ることが出来れば、何とか踏ん張れるのではないかと思わせるのだ。奈苗が信と前妻の娘に対して、とっさに保護者としての表情を見せるシーンにもはっとした。
 このように大人の不完全さを描く良いシーンもあるのだが、正直なところ、色々とひっかかる部分も多かった。奈苗が妊娠ハイとでも言えばいいのか、妙に能天気に見えてしまうので、この人をどのようにとらえればいいのかともやもやする。また、前妻(寺島しのぶ)の言葉は随分「台詞」感があって、他の部分から多分に浮いていたように思う。前妻が抱えるプレッシャーや息苦しさと信の無理解には、こういうシチュエーションてあるよなーという「あるある」感が強いのに、前妻の言葉は作りものっぽい。セックス中の振る舞いにも、彼女が心配していることからするともっと他に言いそうなことあるんじゃないの?!と興ざめした。本作はあくまで信の視線によるもので、奈苗の能天気さや妻の芝居がかった態度は、彼にとって「そう見える」ということなのかもしれない。しかし、奈苗や前妻も信と同様に惑っているはずだ。女性たちの描写がほぼ紋切、しかも古臭いタイプの紋切型に見えてもったいなかった。
 なお、俳優の中では奈苗の前夫役の工藤官九郎が素晴らしかった。絵に描いたようなダメさ!ぱっと見るだけでこいつクズだなと思わせるクズオーラの出し方が素晴らしい。



水曜日のエミリア [DVD]
ナタリー・ポートマン
Happinet(SB)(D)
2011-11-02

『サーミの血』

 1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族サーミ人の少女エレ・マリャ(レーネ・セシリア=スパルロク)は、妹と共に寄宿学校に通っていた。エレ・マリャが進学を望むが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と取り合わない。当時、サーミ人は差別的な扱いを受けており、部族の伝統的な生活以外の人生は認められなかった。エレ・マリャは今の生活から抜け出す為、クリスティーナと名乗りダンスパーティーで知り合った青年ニクラスの家を頼って街へ向かう。監督はアマンダ・ケンネル。
 サーミ人の子供たちにたいして行われる「身体測定」がショックだった。何の目的か、何をするのか説明されず、おもむろに身体や顔のパーツを図られ、裸にさせられ写真を撮られる。同等な人間ではなく、保護すべき動物のような扱いなのだ。教師が「あなたたちの脳は文明に適応できない」と言うのもショックだったが、当時の先住民に対する理解はそんなものだったのだ。衣服や顔を触られるのも、相手に悪意はないのだろうが(だからなおさら。断りなく触っていい対象だと思っているってことだから)非常に不愉快。見世物の動物みたいに「観賞」されるのだ。サーミ族が伝統的な生活を送れるよう保護していると言えば聞こえはいいが、それ以外の道を閉ざすという差別をしているわけだ。エレ・マリャが都会で出会った学生たちは無邪気に民謡を歌ってとねだるが、その民謡が本来どういう場で歌われる、彼女にとってどういう意味を持つものなのかは全く考慮されていない。やはり見世物扱いなのだ。
 エレ・マリャは自分たちが見世物として扱われていると感じており、見世物としてではない人生を選ぼうとする。彼女はそのために家族も伝統も故郷も捨てる。自分のルーツを否定して「クリスティーナ」としての人生を選ぶのだ。彼女の取った方法は極端で、現代の目で見ると(当時としてもか)色々と問題がある。そのやり方だと、差別される側からする側への移動にすぎず、差別や無理解はそのままだ。実際、年を取ったエレ・マリャ=クリスティーナは、かつて自分が侮蔑されたのと同じような言葉を、サーミ族に対して投げかける。ただ、当時他にやり方があったかというと、多分なかったのだろう。欲しい物を手に入れるために自分の出自やそれまでの生活を否定しなければならない、ある意味嘘の人生を歩むことになるというのは、あまりに理不尽だ。
 とは言え、エレ・マリャ=クリスティーナの家族を捨てても自分の道を歩もうとする頑固さ、タフさは心を打つ。初めて街に出てきた時の、新しい世界を見た!これが見たかったんだ!というような表情が清々しかった。



サーミ人についての話 (東海大学文学部叢書)
ヨハン トゥリ
東海大学出版会
2002-03-01

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ