3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』

丸山正樹著
 元警察官の荒井尚人は手話通訳士をしている。ろう者の法廷通訳を担当したことがきっかけで、荒井はあるNPO団体から仕事を依頼された。ろう児施設の代表が殺された事件と、過去、同じ施設内で起きた事件とが交錯していく。
 「ろう者」の家庭に生まれたことで「ろう者」の世界と「聴者」の世界の間に生きてきた荒井を通じて、「ろう者」の文化、そして2つの文化の間のギャップを見せていく構造。日本手話と日本語手話があるということ程度は知っていたが、当事者にとってはこうも違和感のあるものだったのか…。荒井は手話文化にポジティブな思い入れがあるわけでもなく、そんなに好感度の高い人柄でもないし、立派な人でもない(むしろ小者感や配慮のなさが目立つ。交際相手の子供と元夫を巡る一幕など認識甘すぎて大人として相当まずい)。そういう所がかえって等身大に感じられる。その等身大な「立派ではない」人の眼を通しているところがポイントだと思う。そもそも本作、立派な人や私にとって好感度の高い人は出てこないのだが…。
 読んでいて違和感を感じたのが、荒井がしばしば「(ろう者と聴者の)どちらの味方なのだ」と問われる、また一方的に「味方」「敵」扱いされる所だ。敵か味方かのどちらかを選択しろという要求自体が大分失礼ではないかと思うが、通訳は、どちらの側にとっても「正確に通訳する」ことこそが正しい。そこに勝手に敵味方概念を乗せるなよと思ってしまう。また、ろう者家庭に育った聴者の子供は通訳の役割を果たすようになるという事情も、それはそれで一つの家族の形だと理解はできるが、ひっかかるものがあった。聴者の子供のに大人になることを強いてしまうのではないか(親の通訳をすることで大人の世界に強制的に組み込まれるので)。子供時代の荒井が感じていた疎外感は、親の愛を理解していても帳消しにはならないのではないかと。


ビヨンド・サイレンス [DVD]
ハウィー・シーゴ
キングレコード
2004-02-25




『ターミナルから荒れ地へ 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』

藤井光著
 アメリカという国家のアイデンティティーを伝統的に描いてきた「アメリカ文学」がどのように変容し、何を描こうとしているのか。翻訳者である著者が現代アメリカ文学をひもとく。
 先日読んだ『空とアメリカ文学』(石原剛編著)に引き続き、本著もターミナルから始まる。アメリカと航空というのは切っても切れない、アメリカといえば飛行機、という関係なのだろうか。航空機そのものというよりも、地上にしろ空にしろ移動する、移動して領域を確かめることが国民性というか、アイデンティティーのようになっているのだろうか。単純に国土が広いという側面もあるのだろうが…。指摘されるまで、いわゆるアメリカ文学がアメリカという国がどのようなものなのか向き合ってきたということに気付かなかったが、言われてみれば確かにそうだ。日本の文学と比較しても、この国は一体何なのか、という側面が強い。ただそういった意識は、現代文学では薄れてきているように思う。本著内でも言及されているように、アイデンティティがそもそも土地としてのアメリカにはない、外から流入してきた移民文化に軸足を置いた文学、国という部分に重きを置かない傾向が見えてくるのだ。個人のアイデンティティの置き所や問題意識の変化が垣間見られる。もっと個の文化圏や時代性に寄せてきている。だから現代の日本文学と局地的に似通った感性が見られるという、面白い現象が起きるのだろう。
 現代アメリカ文学の批評として面白いのだが、文章スタイルが凝りすぎで時にスベっている感じになってしまっている気がした。ちょっと勿体ない。


現代アメリカ文学ポップコーン大盛
吉田恭子
書肆侃侃房
2020-12-14


『私的読食録』

角田光代・堀江敏幸著
 古今東西の小説や随筆、日記などの作品に登場する様々な「食」は、なぜか読者の記憶に残るもの。「食」を作家たちがどのように描写してきたかを、同じく作家である2人が鋭く読み解き紹介していく。
 角田著と堀江著が交互に配置された食べ物エッセイ。食べ物といっても文学の中の食べ物なので、作家によっては食べ物の質感や味に全く頓着せず、便宜上料理名を出しただけ、というようなこともある。一方で読んでいるだけでよだれが出そうな、実に美味しそうな描写、またこれはいったいどういう味なんだろうと想像が膨らむ描写もある。文学の中の食って、なんでこうも興味掻き立てられるのだろうか。下手すると実際の食よりも全然面白い。特に児童文学の中の食は、食の経験値が低い子供の頃に読むからか、まだ知らない世界に対するあこがれの糸口になる。本著中でも児童文学の中の食(「甘パン」とか)が登場するが、本当にしみじみと食べたかったもんなぁ…。
 ピンポイントで食に関する記述を探し出し掘り下げていく著者2人の読者・批評家としての力量も光る。2人の傾向がちょっと違うのも面白い。角田の書き方の方がより食べたくなる、堀江の書き方はその記述の出てくる作品を読みたくなる方向性だと思う。

私的読食録(新潮文庫)
角田光代
新潮社
2020-11-30


『銀魂 THE FINAL』

 不死身の生命を持つ虚により地中のエネルギー・アルタナを吸い上げられ、地球滅亡が迫る中、かつての盟友、銀時(杉田智和)、高杉(子安武人)、桂(石田彰)は虚を阻止するために奔走する。一方、万事屋の新八(阪口大助)と神楽(釘宮理恵)や真選組の面々も、彼らを助ける為に立ち上がる。原作は空知英秋の同名漫画、監督・脚本は宮脇千鶴。
 『銀魂』劇場版3作目、かつ本当の最終回。本来ならアニメ版の最終回はTVシリーズとしてやるべきだったと思うのだが(劇場版はあくまでスピンオフ)、原作もまさかの終わる終わる詐欺かつ最終的には連載媒体移動したから、らしいといえばらしいのか…ある意味首尾一貫している。なんにせよ、アニメ化も最後まで完走できてよかったよかった。製作側の多大な努力とファンの熱意によるものだろう。いやーよく続いた…。アニメシリーズ放送開始に中高生だった視聴者はもう立派な大人ですよね…。
 銀魂と言えばギャグとパロディと悪ふざけ、特にアニメシリーズは製作会社(サンライズ)と原作版元(集英社)のコンテンツをフル活用していたが、今回は冒頭に集中している。正直、今回の笑いは冒頭の「これまでのおはなし」パートで使い切った感がある(作画力もかなり使い切っている)。元ネタのカラー原稿テイストを踏襲しておりクオリティが妙に高い。以降はかなりウェットなストーリー展開なので、ギャグを求める人には拍子抜けかもしれないが、銀魂のベースは割とオーソドックスな人情噺なので最終回としてはこれでいいのだと思う。
 キャラクターの人生にちゃんと決着をつけるという意味では、正しい最終回だったのではないかと思う。あるキャラクターについて、ああやっぱりこういう人だったのかと納得させられる所があり、シリーズを追ってきた者としては感慨深いし、彼のファンだったらなおさらだろう。いわゆる男のクソデカ感情が炸裂している。上映中に泣いているお客さんがいたが、そりゃあファンは泣くだろうなと思った。このパートのみ作画が力んでいる感じ(あとはTVシリーズとあんまり変わらないかな…)。
 なおシリーズ通して見た上で本作見ていると、銀時と高杉に比べると桂はあんまり屈折していない(変人ではあるだろうが)んですね…。何というか、精神が健やかな感じがするのが面白かった。



『声優夫婦の甘くない生活』

 1990年、ソ連からイスラエルへ移住したヴィクトル(ウラジミール・フリードマン)とラヤ(マリア・ベルキン)夫婦。映画の吹替え声優としてのキャリアを活かして再就職しようとするが、需要がなく仕事が見つからない。ラヤはヴィクトルには内緒でテレフォンセックスの仕事を始めるが、意外な才能を発揮し贔屓客も着いてくる。一方ヴィクトルは海賊版ビデオ店で映画吹替えの仕事を得るが。監督はエフゲニー・ルーマン。
 監督自身が旧ソ連圏からの移民だったそうで、ヴィクトルとラヤが体験するカルチャーショックやギャップは、実体験によるものなのだろうか。邦題はフェリーニの『甘い生活』(ヴィクトルはフェリーニを敬愛している)のパロディだが、ヴィクトルとラヤの生活は邦題の通り甘くなく、ほろ苦いししょっぱい。若くはない状態で仕事が見つからないという状況は経済的にもプライド面でもかなりきつい。また、自分たちと同じ民族の国だが言葉は通じない、風土も生活環境もちょっと違うという、生活する中でのストレスが少しずつ溜まっていく。同じだけど違う、という微妙さは、傍で思うよりも結構きついものなのだろうなと思わされる。
 更に、夫婦間の溝も深まっていくのだ。ヴィクトルが新しい環境に馴染めないのに対し、ラヤは早々に仕事を見つけ、ヘブライ語の学習もしていく。語学学校での2人の姿勢の違いが対称的だった。ヴィクトルは自分のキャリアを輝かしいものと自負しているが、ラヤは「その他大勢」扱いだったことに不満があり未練がないからかもしれない。こういう夫婦間のギャップは移民ならずとも、定年退職後等にはありそうだなと思った。妻はそれぞれ自由に暮らしたいと思う一方、夫はようやく夫婦2人で過ごせると思っているという。でも2人で過ごし続けるにはそれまでの積み重ねが必須なんだよなと。ヴィクトルはラヤのことを愛してはいるが、独りよがりで彼女が実際何を考えているのかには思いが及ばない。記念写真の撮り方も、彼にとっては記念なんだろうけどラヤにとってはどうなんだろうと。記念写真は2人で撮るものではないのか?

甘い生活 プレミアムHDマスター版 ブルーレイ [Blu-ray]
アヌーク・エーメ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2012-05-25


『Mank マンク』

 1930年代、ハリウッド。脚本家のマンクことハーマン・J・マンキウィッツ(ゲイリー・オールドマン)はオーソン・ウェルズ(トム・バーク)から依頼された新作『市民ケーン』の脚本を執筆中だった。アルコール依存症に苦しみ、無茶な納期や注文、製作会社からの妨害に振り回されつつ脚本の完成を目指す。監督はデビッド・フィンチャー。
 1941年に公開された『市民ケーン』はオーソン・ウェルズ監督主演の代表作だが、その脚本を手掛けたのがハーマン・J・マンキウィッツ(現在ではウェルズとマンキウィッツの共作扱い)。マンキウィッツが脚本を書いていく様と当時のハリウッドの様子やアメリカ社会の動き、そしてケーンのモデルとなったメディア王ウィリアム・R・ハーストの影を描いていく伝記ドラマ。フィンチャーにとっては久しぶりの伝記ものだが、モノクロ画面に現在と過去を行き来しやがて全体像が浮かび上がるという『市民ケーン』を踏襲したスタイル。『市民ケーン』という作品への敬意が感じられる。と同時に、『市民ケーン』を踏襲しているということは、実在の人物・エピソードを元にしていてもあくまで本作はフィクションだという立て付けも踏襲しているということだ。マンクの勇気と諦めなさ、周囲からの圧力に屈しないタフなユーモアを史実として感動するのには、ちょっと留保が必要だろう。フィンチャーも当然そのつもりで本作を作っているわけだ。本作、こういった構造に加え、観客が『市民ケーン』をしっかり鑑賞していること、製作当時のエピソードや実在の関係者、時代背景についてかなり知識があることを前提に作られているので、鑑賞ハードルはかなり高いと思う。正直、私が見るべき作品ではなかったな…。
 マンキウィッツが書くのはフィクションだ。彼は自分が事実を元にフィクションを書いているという自認は当然あり、それによるリスクも責任を問われることも覚悟している。一方で、ハーストらは選挙を有利に運ぶために「やらせ」のニュース映画を作る。正にフェイクニュースなわけだが(メディアによる情報操作はこのころからあったということに加え、メディア戦で勝つのは資金がある方というのが辛い…)、マンキウィッツはこれに激怒する。フィクションで現実と戦うというのは、こういうことではないのだ。フィクションは嘘でだますこととは違うという、フィクションを扱う者としての矜持が見えた。

市民ケーン Blu-ray
レイ・コリンズ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2019-11-29


『市民ケーン』、すべて真実 (リュミエール叢書)
ロバート・L. キャリンジャー
筑摩書房
1995-06-01


『わたしたちが光の速さで進めないなら』

キム・チョヨブ著、カン・バンファ ユン・ジヨン訳
 討ち捨てられた宇宙ステーションで宇宙船を待ち続ける老人(「わたしたちが光の速さで進めないなら」)、成人の儀式で旅に出た子供たちのうち、何人かはいつも帰ってこなかった(「巡礼者たちはなぜ帰らない」)、遭難した惑星で異星人に遭遇した祖母の体験(「スペクトラム」)。最先端かつどこか懐かしい韓国発のSF短編集。
 身近さを感じる、ちょっと先の未来という感じの作品集。表題作は題名がまず良いのだが、人から様々なものが失われていく中で、もう共有するものがないとしてもどうしてもそこへ向かうのだという意志だけが残っていく様が寂しくも、力強い。共有するものをなくしてしまったのは自分たちの叡智の積み重ねの副産物でもあるのだが。より科学技術が発達し、高度に洗練され合理化される過程で取りこぼされるもの、取り残されていく存在がいることを見せていく。文明の発展は果たして人類を幸せにするのか?というSFのセオリー的な問いかけ、人間の限界を感じされる問いかけがなされていくのだ。 ザ・SF感のある「巡礼者たちはなぜ帰らない」は、人間は自分と異なるものを異なると認識しつつ差別しないことは可能なのか、差異を無くせば分断はなくなるのか、より人間的になると言えるのかという普遍的なテーマ。その一方で、人類と未知のものとの交錯の可能性を描いた「スペクトラム」や「共生仮説」のような作品も。特に「スペクトラム」は、異なるものへの礼節を感じさせ美しい。また「わたしのスペースヒーローについて」は人類のその先に行くやり方、選び方が清々しかった。ジェギョンがやったことで実は違う道をいくガユンの行く先も開けているのだ。

わたしたちが光の速さで進めないなら
キム チョヨプ
早川書房
2020-12-03


『空とアメリカ文学』

石原剛編著
 航空大国アメリカ。大統領専用機エア・フォース・ワンが象徴するようにアメリカの航空・飛行に関わる文化的営為は、他の国と比較しても存在感がある。文学はその中で航空・飛行にどのような影響を受け、表現してきたのか。古典から現代文学まで10の論文から構成された、アメリカ文学の中に見られる航空文化のあり方。
 本著の序章で言及されて初めて意識したが、確かにアメリカの映画にしろ小説にしろ「飛行機で移動する」ないしは「飛行機を操縦する」ことが行為そのものプラスアルファの意味をはらむことが多いように思う。物理的に飛行機での移動が多い、産業として航空産業の存在感が大きいという経済活動に由来する部分も大きいのだろうが、空を飛ぶことへの憧れ、空という空間そのものに感じるロマンが他国と比較して強めなのかもしれない。飛行士個人がスター視されていた文化もそういう文化に根差したものだったのか。本著では気球の時代から「パンナム」が空を制し(のちに倒産するが)航空機大国になるまで、文学がどのように航空をとらえてきたかを央。アメリカ以外でもサン=テグジュペリについての章もあるのだが、英訳の『人間の大地』は題名も内容も原典とは一部異なる別バージョン(翻訳者と出版社の判断による)だったことは初めて知った。それはありなのか?という疑問はあるが、アメリカの読者が飛行機、飛行士が登場する文学に何を求めるか、という部分がわかるエピソードだと思う。サン=テグジュペリが意図したのは飛行機や飛行士そのものというよりそれに象徴される人間のあり方、哲学的なものだったが、アメリカの読者に求められたのはルポルタージュ的なものだったという。
 またアン・モロウ・リンドバーグの著作について言及された章もある。女性飛行士、かつ有名飛行士の妻である彼女に対する世間の目、評価は現代の「女性〇〇」「美人すぎる〇〇」と同じものであった(来日時のエピソードがあるのだが、日本かなりイタいな…)。今が当時とあまり変わっていないことにかなりがっかりするが、彼女の著作が今まで女性から愛読され続けてきた理由が垣間見えた。

空とアメリカ文学
石原 剛 編著
彩流社
2019-09-17


アメリカ文学史―駆動する物語の時空間
巽 孝之
慶應義塾大学出版会
2003-01-01


『三つ編み』

レティシア・コロンバニ著、齋藤可津子訳
 インドに不可触民(ダリッド)として生まれたスミタは悲惨な境遇から抜け出すために娘を学校に通わせようとするが、社会のシステムの前に希望を断ち切られる。イタリアで父親が経営する毛髪加工工場で働くジュリアは、工場の経営危機に直面し、金の工面の為望まぬ結婚を迫られる。カナダで弁護士として順調なキャリアを積んでいるシングルマザーのサラは癌を告知された。3人の女性の人生がある一点で交錯する。
 髪の毛のリレーで3人の女性が、自分たちではそうとは知らずにつながっていく。彼女らは3人とも女性に課された抑圧から逃れ、自由を手にしようとする。スミタが生きるインドでは生まれた階層から移動することは容易ではない。女性ならなおさらだ。人生の選択肢が極端に少ない。それに比べるとジュリアやサラは自由と言えば自由。しかしジュリアもお金の為の結婚を期待されるし、人生勝ち組のように見えたサラも、その勝ち組になるには絶対に弱みは見せられないし負けられない、男性よりも失敗が許されないという理不尽な社会の壁にぶち当たる。彼女たちがその社会の枠組みから少しだけ自由になり、自分の人生に手を伸ばす様は清々しい。
 が、本作はいわゆる女性の連帯につながるわけではない。3人が物理的にお互いのことを全く知らないというのも一因なのだが、3人が置かれている社会背景、経済状況がかなり異なる。3人とも自分の人生を掴もうとする点では共通しているが、ジュリアのビジネス、またサラのある決意は、スミタのような境遇の人達を搾取する行為と言えるだろう。需要と供給といえばそれまでかもしれないが、その不均等が気になるといわゆる「いい話」とは読めなくなってくる。3人が持つ苦しみが同じものとは言えないし、持っている選択肢の数が全然違う。階層の違いという部分で越えられない溝を感じた。

三つ編み
レティシア コロンバニ
早川書房
2019-04-26


リラとわたし (ナポリの物語(1))
Elena Ferrante
早川書房
2017-07-06








『フォックス家の殺人』

エラリイ・クイーン著、越前敏弥訳
 飛行士として戦争で活躍したデイヴィー・フォックス大尉は故郷のライツヴィルに帰ってきた。激戦で深い心の傷を負った彼は、妻リンダの首を絞めようとしてしまう。彼の行動には、かつて自分の父ベイヤードが母を毒殺した事件が影を落としていた。かつてライツヴィルと縁があったエラリイ・クイーンは、相談を受けベイヤードの無実を証明するため、再びこの町を訪れる。
 戦争の英雄が故郷に戻ってくるが戦禍により深いトラウマを負っている、家族の間にも隠された秘密があり、かつ町は長年暮らしている民ばかりで閉鎖的という、横溝正史か!と突っこみたくなるような序盤だが、クイーン作品の中でもかなり引きの強い導入の仕方ではないだろうか。この引きの強さは新訳の良さもあるのだと思う。クイーン作品は読みにくくって…という人にこそお勧めしたい。過去の捜査をそのままなぞり堂々巡りになるかのようなエラリイの行動、その中から少しずつ過去との齟齬が現れてくる。冷静に考えると最初からこれしか結論が思い浮かばないという所から、また一転させていく。
 本格ミステリの醍醐味(目くらましがあからさますぎるなーと思ったらそういう機能でしたか!かつて読者から指摘されたであろう微妙な部分に作中でわざわざ注釈いれているのはご愛敬ですが)があると同時に、戦争の傷の深さが刻まれている所に本作が書かれた時代背景を感じた。小説としては必ずしも帰還兵でなくてもいいし、終盤に登場するある人の設定など、特に必然性はない。それでも織り込んだという所に作家の意志を感じた。
 なお本作の事件の真相は大変痛ましいものだが、エラリイの「途方もなく重い責任がともないますね」という言葉に対するある人の返しは、エラリイとクイーン警視の関係にも薄く重なってくるように思う。


災厄の町〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ・クイーン
早川書房
2014-12-05



『あのこは貴族』

 配信試写で鑑賞。東京の医者一族に生まれ、何不自由なく育った華子(門脇麦)。結婚相手探しに奔走した結果、良家の生まれの弁護士・幸一郎(高良健吾)と縁ができる。一方、富山で生まれ大学進学に伴い上京した美紀(水原希子)は実家が経済難で退学。以来、東京で働き続けてきた。全く違う環境で生きてきた2人の人生が、ある一点で交錯する。原作は山内マリコの小説。監督は岨手由貴子。
 華子と美紀のキャスティングの妙があった。生まれながらの「いいおうち」の娘さんて実際こんな感じだよなという華子と、上京して洗練され華やかになっていく美紀の対比がくっきりしている。華子のような環境だと、華やかであることはあまり必要ないしさほど美点というわけでもないんだろうなと思わせる。対して「持ってない」美紀は自身の華やかさも使ってサバイブしないとならない。
 華子が年始をホテルの食事会で迎えるあたり、あーこういうおうちあるわ!という説得力だった。ちょっと戯画的すぎないかなという所もあるのだが、東京の「ある層」のニュアンスは出ているのでは。華子のような人々を美紀は「貴族」と呼ぶが、貴族の中にもヒエラルキーがある。幸一郎は華子よりも更に貴族。美紀が大人になったらクリスマスなんてやらないというのに対し、華子が信じられないと漏らすのだが、それをぽろっと口に出してしまうあたりが貴族ということか。
 美紀から見ると華子は非常に恵まれているように見える。しかし、彼女らが直面する困難や社会のしがらみはびっくりするほど似ている。華子の世界でも美紀の世界でも女性は結婚と出産を期待され、夫の不始末には「上手くやれ」と言われ、値踏みされ続ける。むしろ華子や幸一郎の方が「持っている」ものが多く捨てられないだけに、閉塞感は強いように見えた。日本の社会がそもそも持っている旧弊さ・閉塞感なのだ。美紀や友人は「持っていない」からこそそこから飛び出せる。階級の閉塞感から飛び出す為の手段がシスターフッドだという所にほのかな希望があった。そのシスターフッドは、かすかではあるが華子と美紀の間にもある。ただ、階層を越えた連帯というのはかなり成立しにくいんだろうなとも思わされたが…。同質の苦しみがあるが、それに対して取り得る手段が異なるというか。
 一方、幸一郎は自分が生まれた世界に骨を埋めるしかなさそうだ。ブラザーフッドとシスターフッドの決定的な違いを見た気がした。家父長制の中ではブラザーフッドはその強化の方向に働いてしまうのだろうか。男性の場合、同性同士でケアしあうという意識が希薄な気がする。

あのこは貴族 (集英社文庫)
山内マリコ
集英社
2020-07-03


パリ行ったことないの (集英社文庫)
山内 マリコ
集英社
2017-04-20


『ザ・プロム』

 ブロードウェーの「元」スター・ディーディー(メリル・ストリープ)とバリー(ジェームズ・コーデン)は新作が大コケし窮地に立たされていた。原因は2人のイメージがナルシスト、エゴイストで好感度が最悪だからだという。そんな折、インディアナ州の田舎町に住む高校生エマ(ジョー・エレン・ペルマン)がガールフレンドとプロムに出たいと願っているが、PTAに猛反対されたというニュースを知る。ディーディーたちはエマを助けてイメージアップを図ろうと田舎町に向かう。監督はライアン・マーフィー。
 エマの暮らす田舎町では、学校やモールにいる人たちはそこそこ他民族なのだが、ことセクシャリティに関してはものすごく保守的。カミングアウトしたエマは両親に家から追い出され、校内の味方は校長(キーガン=マイケル・キー)のみ。ガールフレンドのアリッサ(アリアナ・デボース)も生徒会長という立場上、2人の関係を秘密にしており表立ってかばうことができない。今時「同性同士のカップルはプロム禁止」なんて言ったら大炎上しそうなのに大丈夫?!と逆に心配になるPTAの硬直ぶりだ。そんな超保守的な土地にゲイのアイコン的なディーディーや「100%ゲイ」だというバリーが乗り込んでくるので、文化間のギャップが激しい。そのギャップを埋めていく、というより田舎の偏見を打開していく話だ。自身も自分のセクシャリティー故に田舎を飛び出してきたバリーのエマに対する思いやりや、彼のプロムへの思いが昇華される過程にはぐっときた。またちょっとマヌケなキャラだったトレント(アンドリュー・ラネルズ)が地元の価値観(やはりキリスト教強し…)を逆手にとって高校生たちの視野を開いていく様も意外性がある、かつやはり若い方が頭柔らかいよね、と思わせるいいナンバーだった。
 ただ、ゲイのカップルがプロムへ向かうという現代的なストーリー。だが、その現代性とプロムというイベントがアンマッチな気がした。プロムに行かなくては、という部分は旧来の価値観に乗っかっているのだ。そんな排他的なイベントなんて粉砕するぜ!という方向にはいかない。元々あるものを色々な人が享受できるように随時ブラッシュアップしていく、という姿勢は社会の構成員としては正しいのだろうが、個人的にはつまらないと思う。そこから脱出しちゃうという選択肢はないのかなと。『ブックスマート』見た時も同じことを思った。ベースの価値観はあんまり変わらないんだなと。プロムは異性にしろ同性にしろカップル文化の産物なので、その点は非常に保守的だと思うんだけど…。一人でいるという選択肢はないんだよなと。

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー 豪華版 [Blu-ray]
モリー・ゴードン
TCエンタテインメント
2021-02-26


キャリー [Blu-ray]
ジョン・トラボルタ
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2015-12-18




『私をくいとめて』

 ひとりきりの生活を長らく続けている31歳の黒田みつ子(のん)。脳内の相談役「A」と会話することで心の平和を保ち、週末の一人レジャーも板についている。ある日、みつ子は取引先の若手社員・多田(林遣都)に恋心を抱き、晩御飯のおかずを分け合う仲になるが、次の一歩を踏み出せずにいた。原作は綿矢りさの小説。監督・脚本は大九明子。
 みつ子と「A」との会話は声に出していたらちょっとヤバい人だろうけど、やっていること自体はそんなに突飛というわけでもないだろう。誰しも、多かれ少なかれ自分内での討論みたいなものはやっているのでは。はたから見ていたら、みつ子は多分そんなに変わった人ではない、ごく普通なように見えるだろうし、実際わりとちゃんと生活している。ただ、そのごく普通さ、ちゃんとした生活を維持するために押さえ込んでいるもの、主にマイナス感情なものが多々ある。温泉でのエピソードは唐突にも見えるだろうが、普段押さえているものを象徴するような事態が目の前で起きて自分の中身を「くいとめ」られなくなりそうということだろう。対芸人だからとかではなく、会社の中であってもご近所づきあいレベルであっても、女性が世の中でただ生きているだけでもさらされる「嫌なこと」が象徴されていた。「A」が現れなくなった歯科医とのひと悶着もこれと同種の出来事だ。そして、衝動をくいとめてしまう自分自身に嫌悪感が抱くという堂々巡りがまた辛い。
 コミカルな描き方ではあるが、みつ子の苦しさは笑えない。辛さを一人で処理していると、どんどん自家中毒みたいになっていくのだ。ローマにいる間は「A」が出てこないのは、親友と一緒にいるからだろう。何が辛いということを具体的に言わなくても、そこに呼応してくれる人がいれば、Aがいなくても食い止められる。ラストのみつ子の言葉、やっとそれを投げられる相手がきたのだとちょっとほっとした。

私をくいとめて (朝日文庫)
綿矢 りさ
朝日新聞出版
2020-02-28


勝手にふるえてろ
片桐はいり
2018-05-06


『シカゴ7裁判』

 配信で鑑賞。1968年、鹿安護で開かれた民主党全国大会の会場近くの公園に、ベトナム戦争に反対する大勢の市民・学生らが集まった。警察との間で激しい衝突が起き、デモの首謀者としてアビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)、トム・ヘイデン(エディ・レッドメイン)ら7人が起訴される。監督はアーロン・ソーキン。
 ソーキンは実際の事件を元にした作品を得意としているが、本作は陪審員の買収・盗聴が相次ぎ悪名を残すことになった「シカゴ7裁判」をドラマ化したもの。勝ち目の薄い裁判で正義を問うというハードな題材だが、導入部分が結構ポップでテンポがいい。登場人物の氏名テロップが表示され、どの組織のどういう立場の人か初登場時にぱっと見せていくという親切設計だが、説明過剰ではなくさらっと処理していく。全体的に手さばきがいい、構成が整理された作品だ。公園で実際に誰が何をやってどういうことが起きたのか、という部分は終盤まで映像としては見せられず、関係者の証言から部分的に語られるのみだ。それが集約されて終盤で全体像が見えてくる。そこでつい失言したかに思えたヘイデンの言葉を、彼とはそりが合わず反発していたホフマンが正しく文脈を理解し読み解く。ライバルと書いて友と読む的な、少年漫画的シチュエーションも熱い。ストーリーの山の作り方が上手いのだ。
 陪審員の構成を操作し、検察側の証言者は警官ばかりで客観的な証言とは言い難く、被告側の証人の証言は様々な理由をつけて却下され、そもそも判事が最初から実刑ありきで裁判に臨んでいるという、被告側にとっては非常に不利な裁判。法律はどういう立場の人にも等しく働くように作られているものだが、司法側にその気がなければ法の公正さは失われてしまう。力を持つものが自分の都合のいいように司法をコントロールしようとすると、司法のそもそもの土台が崩れてしまうという話で、今(というか2020年)のアメリカでこの話を映画化しなければ!という意志を感じた。「世界が見ている」という言葉が何度も出てくる。私たちが見ている、だから不正はするなということだろう。デモにはそもそもそういう(お前たちを見ているぞ、異議があるぞと知らせる)ものだと思うが、映画もまたそういうことができるのだと。 


モリーズ・ゲーム(字幕版)
マイケル・セラ
2018-10-17


『忘却についての一般論』

ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳
 両親を相次いで亡くしたルドヴィカ。姉オデッテの夫オルランドが所有する、アンゴラの首都ルアンダにあるマンションに移り住んだルドヴィカ。ポルトガルからの解放闘争が激化する中、姉夫婦が行方不明になり、ルドヴィカは部屋の入り口をセメントで塗り固め、引きこもって暮らすようになる。
 ルドヴィカが残した文章を元に構成されたフィクション、という体の小説。ルドヴィカは文字通り引きこもり生活、それも徹底した引きこもり状態で自給自足の生活をしており、彼女の生活・心情に生じるささやかな変化が綴られる。食料も燃料も尽きてぎりぎりの状況なのにどこか長閑。一方、マンションの外の世界では、植民地からの脱却、それに続く内戦の中で人びとは疲弊し、体制側も反体制側もどちらにも与しない市民も、様々な人たちが死んだり行方不明になったりする。望む望まないに関わらず、忘れ去られてしまう・あるいは忘れられたいと望む人たちがいるのだ。ルドヴィカという1人の女性の人生と、アンゴラという国のある時代・ある局面とが呼応していく。ルドヴィカも誰にも知られず忘れられていこうとしていたが、そこを(物理的にも)打開する返す展開が鮮やか。少なくとも文章を残すということは、自分をどこかに刻んでおきたいということだろう。
 正直、アンゴラという国の歴史(とポルトガルとの関係)をあまり知らなかったので咀嚼しきれない部分もあるのだが、ある人にまつわる謎が他の人のエピソードで解明されるというような、ミステリ的な構成にもなっており、こことあそこが繋がるのか!というサプライズが多々ある。一見散漫としているが実は緻密な構成が上手い。

忘却についての一般論 (エクス・リブリス)
ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ
白水社
2020-08-28


ガルヴェイアスの犬 (新潮クレスト・ブックス)
ペイショット,ジョゼ・ルイス
新潮社
2018-07-31


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