3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『リトル・リチャード アイ・アム・エヴリシング』

 1955年、デビュー曲「トゥッティ・フルッティ」が大ヒットし、ロックンロールの創始者の1人に挙げられる黒人アーティスト、リトル・リチャード。デビュー以降ヒット曲を連発するが、突然キリスト教教会の活動に転身。5年間の教会活動を経て復帰した後は無名時代のビートルズやローリング・ストーンズに大きな影響を与えていく。本人および親族・関係者の証言、研究者の見解や多数のアーカイブ映像、さらにミック・ジャガー、ポール・マッカートニーを筆頭とした有名ミュージシャンのコメントを通し、リトル・リチャードの人生を追うドキュメンタリー。
 リトル・リチャードの作品を良く知っている人にも知らない人にもおすすめできるドキュメンタリーで、アメリカの音楽シーン、アメリカという国の変化、そしてロックンロールの歴史を見るという意味でとても面白かった。エルヴィスはもちろん、ストーンズやビートルズへの影響は知識として知ってはいたがミック・ジャガーやポール・マッカートニーご本人の発言が裏付けていると実感としてわかってくる。ポールのシャウトはリトル・リチャードからの学習だったのか!また映画監督ジョン・ウォーターズの特徴である髭はリトル・リチャードオマージュだそうで、なんだか微笑ましい。
 作中で挿入されるアーカイブ映像を見ると、リトル・リチャードの音楽や自分の考えについての発言は時代時代で結構矛盾があったりするのだが、彼としては嘘を言っているというわけではなく(自己演出は多々あるだろうが)、その時々で彼の様々な面が出ているということなのではないかと思った。本作を見ると音楽とはまた別に、彼のアイデンティティの多面性、矛盾をはらんだ複雑さが強く印象に残る。当時のアメリカではいうまでもなく人種差別が激しく、彼の出身である南部では猶更だった。さらに彼はゲイを公言するクィアだった。そういう人にとって生きることは相当困難だったろう。ただミュージシャンとしてはクィアであることを大っぴらにしていたことで、白人男性からの加害をむしろかわすことができた側面もある(自分たちの狩場を荒らす=女性を横取りする存在ではないと思われるから)というからまた複雑だ。
 一方で彼はキリスト教教会の影響が多大にある環境(土地柄に加え、父親が教会の仕事をしていた)で育っており、教会の教義と自身のセクシャリティ、音楽性との矛盾を抱えていた様子も見受けられる。弟の死をきっかけにいきなり敬虔なクリスチャンとしてふるまうのもそういった素地があったからだろう。自分のクィアとしてのアイデンティティに忠実だと教会からは疎外されてしまう。自身が割かれていくような要素を持ちつつ生きてきたのであろうことが垣間見えてくる。教会の活動にのめりこんだ彼が自分はクィアではない、ヘテロセクシャルになったと公言したことで当時のクィアの人々はとても困った(「治せる」ものだと思われてしまうから)というがそれはそうだろう。リトル・リチャードはクィアとして何ができるかという部分にはあまり興味がなかったのかもしれないけど。
 本作を見て、私はそういえばリトル・リチャードの曲は本人のパフォーマンスではなくカバーバージョンの方を主に聞いていたことに改めて気付いた。これが作中でも言及されてている問題なんだと。黒人歌手のヒット曲を白人歌手がカバーして大ヒットになる。しかしオリジナル版のことは忘れられていく。往々にしてよくあるパターンだと思うのだが、リトル・リチャードが折に触れて自分はすごい、自分がロックンロールを始めたと主張するのは、そうしないと自分の作品であることが忘れられていくからだ。主張し続けた彼がようやく公の場で評価される様にはやはりぐっとくるが、もっと早くに報われていればとも。ただなんだかんだでずっと音楽活動を続けていたところはやはりすごい。

Very Best of Little Richard (Dig)
Little Richard
Specialty
2008-08-21





『書きたい生活』

僕のマリ著
 エッセイ集『常識のない喫茶店』でデビューした著者の第2作。前作の続編であり、著者が喫茶店勤務を卒業し文筆家として新しい生活に乗り出す様が綴られる。
 『常識のない喫茶店』で鮮烈なデビューをした著者とのことだが、申し訳ないが『常識のない~』私読んでいないんですよね…。ただ前作を読んでいなくても大丈夫だった。転職し、結婚もし、人生の新しいステージに移った人の不安、高揚感、そして喫茶店の仕事にもこの先本業となる文筆業にも真摯であろうとする姿勢が瑞々しい。やはり新生活を始めようとする人にお勧めしてみたくなる1冊だった。本著のような日記エッセイが近年すごく増えたなという印象があるが、じゃあ似たような日記本のうちでどういうものが面白く感じられるのかというと、基本的な文章のスキル高低はもちろんあるのだろうが、何より正直かどうかという所ではないかと思う。日記と言えど他者に向けての表現として出版するわけだから当然何らかの演出・編集はされているわけだが、自分自身のコアな部分に対して正直かどうか、変な装いをしていないかどうかで振り分けている気がする。

書きたい生活
僕のマリ
柏書房
2023-02-28


常識のない喫茶店
僕のマリ
柏書房
2021-09-15



『ソウルメイト』

 済州島に転校してきたミソ(キム・ダミ)は、画家になって世界中を旅したいと願う自由な少女。彼女と親友になったハウン(チョン・ソニ)はミソの生き方に憧れつつも堅実な人生を築いていく。ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染の2人だったが、医師志望の青年ジヌとの出会いをきっかけに2人の関係は急激に変化していく。香港のデレク・ツァン監督『ソウルメイト 七月と安生』を韓国でリメイクした作品。監督はミン・ヨングン。
 物語は大人になったミソがハウンとの関係について問われる所から始まる。ミソはもうずっと疎遠だと答えるが、それは嘘であることもわかる。なぜ彼女がそう答えたのか、2人に何があったのかということが時間をさかのぼって描かれ、一つの答え合わせのようなミステリ的側面がある。本作、女性2人男性1人がメインの登場人物で一見三角関係に見えるが、実際はそうでもない。あくまでミソとハウンの関係についての物語であり、ジヌは2人と深く関わるが触媒的な存在にすぎない。愛があるのはミソとハウンの間であると明言されるのだ。
 しかしミソとハウンの関係は成長してからはすれ違いの連鎖で、距離は離れてしまう。進学先、仕事、家族、経済状況など、様々な要因が2人の環境を離してしまうというのは、特に女性の場合はよくあるケースだと思うのだが、経済的に厳しい環境にあるミソのそれを悟られまいとする振る舞いはいじらしく、見ていて苦しい。ミソとハウンは性格も家庭環境も対称的でお互いに憧れがあるのだが、その憧れが本当のことを言いにくくする。お互いに助け合う・向き合うことを徐々に妨げていくのだ。
 ただ本作、この対称的な2人がある地点から同一化していく所が面白い。お互いに影響し合うというよりも、あなたの人生を私が生きる、私の人生にあなたがなるというような一体化なのだ。これを愛、友情と言えるのかどうかがよくわからない。相手の意志を確認できないかなり一方的な愛の在り方のような気がするのだ。これが私にとってのあなたへの愛だ(あなたもそれを知っているはずだ)と断言できるほどの強さということなのかもしれないが。

ソウルメイト/七月と安生[Blu-ray]
マー・スーチュン
Happinet
2022-02-02



『落下の解剖学』

 雪山の山荘で、視覚障がいをもつ11歳の少年ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)と愛犬が、家の外で血を流して倒れていた父親を発見。少年の悲鳴を聞いた母親サンドラ(ザンドラ・ヒューラー)が救助を要請するが、父親はすでに息絶えていた。当初は事故による転落死と思われたが、前日に夫婦ゲンカをしていたことなどから、サンドラに夫殺しの疑いがかけられていく。ベストセラー作家のサンドラとやはり作家志望だった夫の間には溝が出来ていたのだ。監督・脚本はジュスティーヌ・トリエ。
 同業者がパートナーだと、お互いの性格によってはものすごくめんどくさく葛藤の絶えない関係になりかねない。サンドラのヒット作は夫が破棄した構想が元になっていたし、夫はサンドラとの口論を録音して自分の小説の素材にしようとしていた。相手の技量がなまじわかってしまうだけに、お互いに疑心暗鬼や嫉妬が絶えないのでは。わからないから平穏でいられることもあるのだ。
 更に、夫婦関係が対等であることの難しさが露呈していく。本来双方が協力しあって生活を維持していくはずなのに、より稼いでいる方は自分が稼いでいるんだから多少奉仕してもらって当然だろう、パートナーの仕事より自分の仕事の方が重要だと錯覚してしまう。これは男女関係ないだろう。サンドラは家事や子供の世話で自分の作品に取り組む時間がないと訴える夫に、それはやる気がないからだ的なことを言う。彼女の仕事量は家庭内での夫の働きの上に成り立っているのだろうが、そこはスルーされる。
 ただ、裁判の中ではこれらのエピソードは夫が気の毒だったという文脈で使われるのだが、もし男女逆(多数派であろう男性が稼ぎ手寄り、女性が家事寄り)だったらそんなに同情的に受け止められただろうかという疑問もわいてくる。もしサンドラが男性だったら検察官がセクハラまがいの発言をすることもなかったのでは。サンドラは決して品行方正というわけではないが、男性だったらここまで追求されるだろうかという場面がしばしばある。女性であること、そしてフランス語が母語ではない異国人(舞台は夫の母国であるフランスでサンドラはドイツ人、2人の会話は英語、裁判はフランス語)であることが、彼女の訴えのハードルを上げている。母国語以外の言語で裁判で証言するのってかなり負担なのでは。裁判のあり方がそもそも彼女にとってフェアではないとも言える。
 本作で提示される事件当時、また事件に至るまでの出来事は、あくまで関係者の法廷での証言の内容ということになっている。実際に何があったのかは実はわからないままだ。裁判とは原告と被告がそれぞれのストーリーを提示し合いぶつけ合う、あるいは落としどころを探るもので、真実を究明する場ではないということが露呈していくのだ。ただ、それは当たり前と言えば当たり前で、実際に何があったのかなんて他人には知りようがない。本作、シナリオは確かによくできているのだがこの当たり前さを額面通りにやっている感があって、よくできているが今一つ面白みがないという印象だった。

サントメール ある被告
グザヴィエ・マリ
2024-02-01


ありがとう、トニ・エルドマン(字幕版)
ザンドラ・ヒュラー
2018-01-06


『ハリケーンの季節』

フェルナンダ・メルチョール著、宇野和美訳
 村のはずれに住む魔女の遺体が川で見つかった。何者かに殺され死体を捨てられたのだ。魔女は村の男たちからは恐れられ、女たちからは恐れられつつも頼りにされていた。魔女の過去に何があったのか、また魔女に関わった人たちに何があったのか。
 章ごとに中心となる人物が入れ替わり、人間模様と事件の全容が見えてくる。魔女も彼女のところに来る男たちも女たちも、皆暴力とセックス、欲望に翻弄されている。女性たちの多くはセックスを商売とし、男性たちはそれに群がる。また男性たちもまた自分の体を売り物にする。魔女は望まぬ妊娠をした女性たちの堕胎を助け、男性たちのセックスを買う。そのセックスは土着的な家父長制の価値観の中でのセックスであり、女性に対する抑圧は強い。自分の欲望を示せば不道徳扱いされるが相手の欲望に応じないとこれまた否定され、望まぬ妊娠というリスクも高い。義父から性的に搾取され望まぬ妊娠に途方に暮れる少女のパートが(他の章では彼女に向けられる視線がむき出しになることもあいまって)あまりに痛々しい。
 一方男性側は、いわゆる「強い男」「モテる(が1人の女性に拘泥しない)男」という男性像にあてはならないと「男」として認められず群れから疎外されていく。肉体的な強さ粗暴さとは距離感がある、あるいは欲望がクィアなものであった場合、群れの中では死活問題になる。マチズモの強い社会の中で女性がどう扱われるかという面と合わせ、男性にかけられる圧には女生徒は違った形でのきつさがあることが描かれている。魔女がトランス女性であるという要素が、魔女と関わる男性にとっての意味を更にひねったものにしている。改行や、会話をくくる括弧がなくつらつらと続いていく語り口はグルーヴ感を生むと同時に呪詛のようでもある。

ハリケーンの季節
フェルナンダ メルチョール
早川書房
2023-12-20

女であるだけで (新しいマヤの文学)
モオ,ソル・ケー
国書刊行会
2020-02-27



『トゥルー・クライム・ストーリー』

ジョセフ・ノックス貯、池田真紀子訳
 マンチェースター大学の女子学生、ゾーイ・ノーランが失踪して6年。作家のイヴリン・ミッチェルはこの事件に興味を持ち、関係者への取材と執筆を始める。同業者のジョセフ・ノックスとメールでやりとりして原稿の進め方について相談していたが、決定的な情報を入手後、死亡する。ノックスは残された原稿を元に犯罪ノンフィクションを完成させるが。
 サスペンスはサスペンスだが、イヴリンとノックスのメールのやりとりと、関係者への取材内容のみで構成されているという変化球。先日読んだミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』に引き続き叙述トリックミステリと言えるだろうが、どうせやるなら本作くらい大がかりにやってほしいね!メールにしろインタビューにしろ、言葉を発する側は何らかの意図があって発しているわけで、何かをあえて伏せる・あえて言及するという演出が当然含まれている。全ての発言が必ずしも信用できるわけではないのだ。関係者たちのインタビュー内容は全員なんだか怪しい、同時に決定的な疑惑もかけにくいというグレーなもの。更にイヴリンとノックスとのやりとり自体にも黒塗りにされた部分や妙に思わせぶりな部分があり、信用できない語り手たちが二重のレイヤーで語るという構造になっている。ノックス本人が関係者として登場しこれまた怪しげで、サービス精神旺盛だ。事件の謎を解くというよりも、インタビューを重ねる中で関係者の発言の祖語と、それに隠されたものが徐々に見えてくるというものなので、いわゆるフェアな謎解きではない。ただあの時のあれはこういうことだったか!という伏線はきちんと提示されている。そして作中で生じる2つの殺人のうち、1つは解決したと言えるだろうがもう1つは果たして、という余韻をあえて残す。
 ゾーイの家族や友人たちは彼女について様々な意見を言うが、本当のゾーイはどういう人だったのかはなかなか見えてこないままだ。見えてくるのは関係者たちの嘘と、なぜそのような嘘を言ったのかというそれぞれの事情、そして彼・彼女らの人となりだ。ゾーイ自体は空洞のまま物語は閉じていく。そこが少々不気味でもあるし、もしゾーイが「こういう人」とはっきりわかる・表明できるような人だったらそもそもこの事件は起きなかったのではと物悲しくもある。

トゥルー・クライム・ストーリー (新潮文庫 ノ 1-4)
ジョセフ・ノックス
新潮社
2023-08-29


ポピーのためにできること (集英社文庫)
ジャニス・ハレット
集英社
2022-07-07



『恐るべき太陽』

ミシェル・ビュッシ著、平岡敦訳
 仏領ポリネシアのヒバオア島に、5人の作家志望の女性たちが集まった。人気ベストセラー作家のピエール=イヴ・フランソワが主宰するワークショップ<創作アトリエ>が開かれるのだ。しかし作家が突然姿を消し、女性たちも何者かに殺害されていく。
 作品のあらすじの時点で連続殺人ものかつクリスティの有名作をなぞったものであることが明かされているのだが、そこはネタバレにならない、本作の醍醐味はそこにはないという自信ゆえか。なお個人的にはクリスティに対するオマージュという側面にはあまり重きを置いていないじゃないかなと思う。本作はワークショップの参加者が記した原稿、参加者のうちの1人の娘の日記、参加者のうちの1人の夫の視点という3種の視点で構成されている。となればこれは叙述トリック(ということまであらすじ紹介に掲載されているので…)だが、読んでいるうちにその奇妙さ、ちぐはぐさが気になってくる。これはもしや、と思っていたらなるほどやはり、と。この仕掛けであれば連続殺人であることがわかっていてもミステリ要素にはあまり影響ないか。ただそれ以外の部分で結構作りが雑な所があり、全体としては面白いことは面白いけど大味といった感じ。フランスと仏領との関係が垣間見えるあたりはご当地ミステリ的味わいも。観光客が天国天国と持ち上げても、現地の人はそりゃあ醒めているよね…。

恐るべき太陽 (集英社文庫)
ミシェル・ビュッシ
集英社
2023-07-06


黒い睡蓮 (集英社文庫)
ミシェル・ビュッシ
集英社
2017-10-20




『覚醒せよ、セイレーン』

ニナ・マグロクリン貯、小澤身和子訳
 アポロンを拒み月桂樹に姿を変えたダフネ、ユピテルに執着されたこと大熊座になったカリストや牛に変えられたイオ。オイディウスの『変身物語』を、何かに姿を変えざるをえなかった女性たちの声により語りなおす短篇集。
 私は子供の頃ギリシア・ローマ神話が好きで、オイディウスの『変身物語』も当然読んでいたのだが、どことなく不穏で悲しい、理不尽なものを感じていた。何しろ男神(主にゼウス=ユピテル)に執着されてそこから逃れるため、ないしは男神のパートナーの嫉妬により姿を変えざるを得ない女性がやたらと多い。前述のダフネの物語も、端的に言ってストーカー被害みたいな話なので読んだ当時も今も正直怖い。何が怖いのかを当事者である女性たちの声で語りなおしたのが本作になる。冒頭の「ダフネ」を読んだ時点ではあまりにもそのままというか、ひねりがなくて想像の範囲内だなと思ったのだが、短編を読み進めるにつれて段々引き込まれてきた。この社会で女性が味わう抑圧、あらゆる苦々しさや苦痛、怒りやくやしさが時に神話のように、時に現代の話として、様々な様相で描かれる。どれも嫌さが具体的でありありと感じられる。特に様々な悲劇の元凶となるユピテルが典型的なある種の男性として描かれており、腹立たしいやら笑ってしまうやら。
 同時に語り直しにより、声を封じられていた者たちの姿が力強く生き生きと立ち上がってくる。原典を踏まえつつ現代に引き付ける、同時にあの時代にもこのような押し殺された声があったはずと思えてくる語り口が素晴らしい。個々の短編同士特に関連はなく、いわゆる連作短編集という体ではない。しかし訳者あとがきでも言及されているように、個々の声が呼応し一つのハーモニー、女性同士の連帯を作っていくように思えた。この広がり方、声が重なっている様が素晴らしい。題名に使われているセイレーンは単体の名前ではなく海の魔物(に見えるのは男性にとってだけかもしれない)の総称。彼女らに覚醒せよ、連帯せよ、と呼びかけるのだ。

覚醒せよ、セイレーン
小澤身和子
左右社*
2023-06-05


キルケ
マデリン・ミラー
作品社
2021-04-30




『友情よここで終われ』

ネレ・ノイハウス著、酒寄進一訳
 著名な名物編集者・ハイケが失踪した。自宅には血痕があり二階には彼女の老父が鎖で繋がれていた。有能で鋭い感性を持つが大変な毒舌家だった彼女を恨む人物は複数いた。作品の剽窃を暴露されたベストセラー作家、彼女を解雇した出版社社長や元同僚。しかし決定的な証拠はない。刑事オリヴァーとピアはハイケと容疑者たちの繋がりを探り続ける。
 オリヴァー&ピアシリーズもついに10作目。本作ではピアの元夫である法医学者のヘニングがなんとプロのミステリ作家として実績を作っており、彼の著作の内容と題名にはシリーズ読者にはなるほどそうきたかというもの。こういうネタを投入できるようにもなった節目の作品とも言えるのでは。シリーズ内、特に近作では不安定寄りだったオリヴァーのプライべートが今回更に不安定になってもう気の毒なのだが、よりによって何でいつもこういうカードばかりひくのか。好んで不安要素を背負いこんでしまう脇の甘さ(自分に対する見積もりが高すぎるんじゃないかという気がしますね…)がオリヴァーの良さでもありイラつかされる所でもある。ピアとヘニングの関係、またオリヴァーとコージマの関係など、年数を経て双方が変化していくからこそのものもあり、大人の人間模様としても読ませる。
 一方、事件の肝もこの大人の人間模様にはあるのだが、大人として個人がちゃんとブラッシュアップされないままの関係が周囲を蝕んでいったように思える。題名の通り、それはもう友情ではなくなっているのだ。友情の残骸、ないしは幻想のようなものにずっと振り回されてしまう人たちの滑稽さと悲哀、苦しさが苦みを残す。またドイツの出版業界事情が垣間見える所も面白い。これもまたちょっと苦いのだが。






母の日に死んだ (創元推理文庫 M ノ 4-9)
ネレ・ノイハウス
東京創元社
2021-10-29





『夜明けのすべて』

 PMS(月経前症候群)のせいで月に定期的に感情・体調をコントロールできなくなる藤沢(上白石萌音)は、同じ会社に転職してきた山添(松村北斗)に怒りを爆発させてしまう。やる気がなさそうに見える山添は、パニック障害を発症して電車やバスにも乗れず無気力に襲われ、転職を余儀なくされていたのだ。職場の人たちにフォローされつつ仕事をこなしていく中で、藤沢と山添の間には同士のような協力関係が生まれていく。原作は瀬尾まいこの同名小説、監督は三宅唱。
 三宅監督作品は毎回撮影がいいなと思うのだが、本作も同様。フィルム撮影だそうだが、特に夜景やプラネタリウム内など暗いシーンで暗さの色合いに奥行が感じされた。舞台は冬の時期がほとんどなのだが、寒そうでもどこか温かみを感じられる質感になっていたと思う。また人物へのクロースが控えめでほぼフィクスで撮られているところも個人的には落ち着く。情感を煽りすぎずショットが抑制されているように思った。
 抑制されているのはドラマも同様で、原作以上の盛り方はしていない。原作小説をもっとポップに華やかに演出することも可能だったろうし、ありがちな映画化だと藤沢と山添の間に恋が芽生えるという展開を入れそうなところだが、そういうことをしないあたり、原作の肝をわかっているなという印象。そして原作からアレンジされている部分も効果的だった。教材のプラネタリウムを作っているという藤沢と山添の職場の設定は題名により深く関わってくる。更に、登場人物たち個々の存在が小さな星のように、彼らの繋がりが星座を作るように思えてくるのだ。また社長や山添の元上司の背景の付けくわえは、彼らの人としての造形により深さが出たし、生きる上で悲しみや困難を抱えた人たちがお互いに少しずつケアしあうという本作のモチーフを拡張しているように思う。
 一方で、それらしいバックグラウンドがなくても人は人を心配するし手助けするものだという考え、というか覚悟みたいなものも(原作と同様に)織り込まれているのではないか。藤沢も山添も特に親切な人間というわけではない(藤沢はまあ親切かもしれないがピントがずれている)。彼らが抱える問題も別個のもので一緒くたに「苦しい者同士頑張ろう」とはできないということも作中で言及されている。そして藤沢も山添も、周囲の助けがあっても抱えている問題がきれいに解決するわけではない。生き辛さは依然として続く。
 ただ、特別に親切ではなくても誰かの苦しさをいくらか理解し手助けし合うことはできる。それは家族や恋人や親友といった深い関係でなくてもできることだ。藤沢と山添、またその他の社員たちも会社の同僚というだけで、職場が変わればその関係は希薄になっていく。また社長らが参加している互助会も、プライベートで深入りするものではないだろう。儚い繋がりの上での助け合いとも言える。ただ、その薄い関係上での助け合いの積み重なりが人を少し楽にする。本作の登場人物はいい人ばかりで嘘っぽいという指摘もあるだろうが、それは承知の上で(原作も同様だが)人の善性を信じる方向に舵を切っている。これは人の悪を描くよりも実は勇気がいるのではないか。そこをあえてやる、堂々とやる所に本作の清々しさがある。

夜明けのすべて
瀬尾まいこ
水鈴社
2020-10-22


ケイコ 目を澄ませて [Blu-ray]
岸井ゆきの,三浦誠己,松浦慎一郎,佐藤緋美
Happinet
2023-10-04

 

 

『すべての些細な事柄』

 哲学者フェリックス・ガタリと精神科医ジャン・ウーリーが1953年に設立した、独特の治療法で知られる精神科療養所、ラ・ボルド。毎年恒例の患者とスタッフによる演劇上演会で、今年はゴンブローヴィチの『オペレッタ』の上演が決まる。演出を担当するのは看護人をしている女優のマリー・レディエ。屋外のステージを作りつつ、台本を見ながら演技と演奏の練習が行われていく。監督・編集はニコラ・フィリベール。
 精神科クリニック内での患者たちの撮影というデリケートな環境・被写体だが、ごく自然に撮っているように見える。フィリベール監督の近年の作品である『アダマン号に乗って』も似たシチュエーションの作品だったが、その前身となる作品のように思えた。治療の場も森の中のお城から町中に停泊した船へ、より世間の中、人の中での場に変わってきている所は、患者の病状や施設の性質の違いもあるだろうが、フランスの精神医療の方針の変化でもあるのだろうか。
 演劇上演に向けた練習・準備が軸になっているが、日常的なレクリエーションや食事等の日課なども映し出される。患者たちは撮影されていることは認識しているが、あまり委縮していないように見える。場面によってはどの人が患者でどの人が医療スタッフなのかわからない所もある。そして、患者であれスタッフであれ複数名集まればそこに社会が生まれる。その社会の中で協調だけではなく時に軋轢やそれに伴う話合い、折り合いが生じる。スタッフがイニシアチブをとりつつ患者と同等であるように思えた。患者であるということ以前に個人であるということが尊重されているのでは。患者内でも演劇に参加したくない人がいて、スタッフは参加しようと説得する。しかし結局気が向かない人は参加しないし、それが咎められるわけでもないという所にほっとした。

アダマン号に乗って
ニコラ・フィリベール
2023-10-25


『梟 フクロウ』

 17世紀の朝鮮。盲目の鍼医ギョンス(リュ・ジョンヘル)は病の弟を救うため、宮廷で働いていた。ある夜、ギョンスは王の長男の死を“目撃”してしう。恐ろしい事実を知った彼は、真犯人を突き止めかつ自分の身を守る方策を探り奔走する。17世紀・朝鮮王朝時代の記録物「仁祖実録」に記された“怪奇の死”を題材にした歴史ミステリ。監督はアン・テジン。
 予告編はホラー映画のようなのだが、本編冒頭でテロップで説明されるように、実在の記録が元ネタになった作品。本作で描かれるような怪死事件があったそうだ。歴史ミステリとして本格ミステリ要素もありつつ、スピーディーに仕上げられておりとても面白かった。
 ミステリとしての面白さを盛り上げるのは、ギョンスの「盲目」設定。盲人が目撃者というのはどういうことなのかという設定が一つの謎になっており、更にこの謎の設定があることでその先の犯人の追及とそこからの自衛をどのように組み立てていくのか、更にある事情から時間制限がある中で果たして時間内にことを終わらせられるかというスリリングさが重なっていく。中盤まではギョンスがどういう才能を持ち、どういう経緯で宮廷に入るのか、宮廷内での仕事はどういうものなのか、また宮廷内の政治的な派閥は今どいう様子になっているのかという部分を順を追って見せていき、なかなかミステリが始まらない。しかしこの前半での説明が後半効いてくる。そして後半は怒涛の展開。スピード感のメリハリがきいていて最後まで飽きさせない、よくできた作品だと思う。
 ギョンスは盲目であることで、周囲からは若干舐められている所がある。また王族らは盲人であれば近づけても大丈夫だろうと安心する。ギョンスはこういった自分の属性をよくわかっており、何も見ない・何も聞かない・何も言わないスタンスでやりすごそうとする。謀略渦巻く宮廷の中ではそれが一番安全なのだ。しかし大きな不正を知ってしまった、それによって命を奪われそうな人がいると知ってしまった時にどうするか。ギョンスが危険を承知で告発するか、保身のために見て見ぬふりをするか、彼の思いの揺れがスリリング、かつ苦さを残す。


毒戦 BELIEVER [Blu-ray]
チン・ソヨン
ギャガ
2021-02-03


観相師(字幕版)
ペク・ユンシク
2023-01-13




『ボーはおそれている』

 中年男性ボー(ホアキン・フェニックス)は、つい先ほどまで電話で会話していた母が突然死んだと魚知る。天井から落ちてきたシャンデリアに頭をつぶされたというのだ。母の葬儀の為に帰省しようとアパートを飛び出したものの、予期せぬトラブルが次々に起こり、帰省の旅はとんでもない方向に進んでいく。監督はアリ・アスター。
 アリ・アスター作品の中では一番嫌いじゃない部類の作品だった。3時間近い尺は流石に長すぎると思うが、悪夢に限ってなかなか覚めない出口のなさとうっとおしさを追体験するようだった。題名の通り、ボーは様々なものを恐れている。怖がりで、心配性なのだ。彼の住まいの周囲もアパートの中もやたらと治安が悪そうで、路上で暴力沙汰は起きているし隙あらば不法侵入されるし連続殺人犯までやってくる。不安要素のインフレで最早ギャグ、どんなスラムだよ!と突っ込みたくなるのだが、これはボーの主観の世界なのだろう。多分他の人にとってはちょっと柄が悪いが割と普通の街並みなのではないか。恐怖や不安はあくまで個々の主観に根差すもので、他人には理解しがたい部分がある。そのギャップがボーをどんどん追い詰めていくのだ。ボーはどちらかというとぼんやりとしていて自分の主義主張をあまり表明できないタイプだということが、子供時代のエピソードを交えることで徐々に見えてくる。そして彼の不安と恐怖が何に根差すのかということも。
 典型的な「母が怖い」案件の話ではあるのだが、ボー個人の母というより、母的なものの支配への恐怖というように思える。ボーの母親はかなり強権的な人のようなのだが、この人が特別変というわけではなく、母親が持ちがちなある傾向を誇張して描いている感じだ。だから普遍的な話になり得るのにすアウトプットの仕方が珍妙で、受け取る側(観客)にとっては普遍的な話ではないというねじれが生じているように思った(多分宗教的なものも絡んでいるのだと思うが)。ただボーの母親に対する恐れは彼から母親に対する一方的なものではなく、母親もまた彼をある意味恐れているという面がある。お互い様なのだ。お互いにもう愛せないと認め合ってしまえばこんなにこじれなかったかもしれないのに…という所はやはり普遍的な話に思えた。
 ラストは個人的には拍子抜け。ボーは悪夢から覚めてしまった(から悪夢の世界にはもういない)ということにならないか。


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2012-11-22






『王国(あるいはその家について)』

 出版社勤務の亜希(澁谷麻美)は休職し、実家へ帰省する。小学校から大学まで一緒に通った幼馴染の野土香(笠島智)の新居を訪ねる為でもあった。野土香は大学の先輩だった直人(足立智充)と結婚し小幼い娘・穂乃香がいた。監督は草野なつか。脚本は『ハッピーアワー』(濱口竜介監督)を手掛けた高橋知由。
 おそらくドラマ映画としての脚本があるのだが、俳優の読み合わせを映画化してしまう、つまり完成した演技の表出はほとんどされないという思い切ったスタイル。同じシーンを何度も読み合わせることで俳優が役を掴んでいき、何テイクも繰り返される中でその都度ニュアンスが異なる。この役柄はどういう人なのか、この役とあの役の関係性はどういうものなのかということが、同じシーンの反復の中で立ち上がってくる。同時に、俳優の解釈次第で物語のニュアンスが変わってくるという、映画における物語の不確定さが浮かび上がってきて非常にスリリングな映画体験だった。人が演じている以上、テイクが重なる中で同じものは生まれないのだ。映画に対するメタ映画といってもいいかもしれない。
 一方、作中のドラマ内での人間関係もスリリングだ。ある大きな事件が起きたことが冒頭で語られるが、その背景にはどういうものがあったのか、同じシーンが繰り返される中でなんとなくわかってくる。3者の会話は一見変哲のないものだがどこか不穏だ。人と人が深い関係性を築くとそこに「王国」が生まれる。その「王国」にいる人の間でだけの共通言語があり、属していない人には共有できない。目の前でそういう状況が展開していたら疎外感を感じ、時にいたたまれなくなるのでは。人と人との間に深い絆が出来るということはそれ以外を疎外することでもある。そういった流れがどんどん浮き上がっていく所に本作の凄みを感じた。

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ハッピーアワー [Blu-ray]
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2018-05-18


『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』

 宮城県の烏野高校は春高バレー宮城県予選を勝ち上がり、兵庫県代表・稲荷崎高校を破って3回戦に進出。対戦相手の音駒高校はかつて烏野とライバル関係にあり、一時は交流が減ったものの再び合宿や練習試合で交流する好敵手になっていた。現メンバーでの公式戦初対決は白熱の試合となる。原作は古舘春一の大ヒット漫画。監督・脚本はテレビアニメ第1~3期の監督を務めた満仲勧。
 TVシリーズと同様Production I.Gの製作作品だが、すっかりスポーツアニメは十八番になった印象(Production I.G製作のスポーツアニメとしては『風が強く吹いている』が原作からのアダプテーションという側面からも大傑作だから皆見てくれ…)だが、本作も例外ではなくTVシリーズから引き続き面白い。基本的に原作漫画に忠実で、競技内の動きをどう見せるかという方向でアニメーションならではの醍醐味を発揮している。カメラの動きはかなり挑戦的で(すごく作画が面倒くさそうで)唸った。また、いわゆる漫画的比喩、鳥かごとか鴉とネコの対比とかはアニメーションでやるとちょとダサいなと個人的には思うのだが、「漫画である」という部分を尊重した作品作りなのだと思う。堂々と漫画だよ!と言っていく方向というか。ただあくまでTVシリーズの続きという立ち位置の作品なので、本作単品で映画として見るには厳しい(映像面というよりもストーリーの流れ上)だろう。まあ本作見に来る人はまずTVシリーズないし原作漫画に触れてから来るだろうからそれでいいのだが。
 原作を読んだ時にはそれほど心に響かなかったのだが、このエピソードは音駒高校の孤爪研磨(梶裕貴)と黒尾鉄朗(中村悠一)のエピソードという側面が強かったんだなと改めて感じた。本作を構成する上で改めてスポットが当たるように調整しているのだと思うが、こういう子たちだったんだなとようやく腑に落ちた感がある。研磨が自分にとってバレーボールとは何なのかようやくつかむ話だったのかなと。ひいては、研磨をバレーボールに誘った黒尾への呼応でもあったかと。それにしても黒尾、人間力あるな!ウザがらみしてくる先輩というだけではなかったのか。研磨に対しても月島に対してもコミュニケーションを諦めない粘り強さに頭が下がる。人を育てられる人としての造形がはっきりわかり、彼が報われる話でもあった。よかったね。










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