3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『小説の言葉尻をとらえてみた』

飯間浩明著
 小説のストーリーを追うのではなく、文章の中でどういう単語が使われているか、どのような使われ方をしているかに着目した、『三省堂国語辞典』編集委員である著者による用例採集コラム。
日本語用例にのみ着目したブックガイド(になっているのかな?)という珍しい1冊。小説を普通に読んでいると違和感なく流してしまうところ、辞書編集委員の手にかかるとこんなにいろいろ着目すべき所が!なかなか新鮮だった。この単語がどう使われているか、という文法上の「謎」をフォーカスしているので、いわゆる小説の内容にはさほど触れていない。しかし、この単語をこのように使う、という面から、その小説の背景、時代や場所の設定や読者層の想定等が垣間見えてくることがあり、そこが面白い。単純にこういう言葉の使い方も事例があるのか!という発見もある。本作の文章はあまりこなれていないのだが、着目の仕方が面白い。それにしても、類似の用例をよく見つけられるよなーと感心する。最初の使用例がどの作品かなんて、古典はもちろん古文書までカバーしてないとわからないよ・・・。
 なお、著者は従来の使い方からずれているような用例に対しても、即座に否定するようなことはしない。言葉は変容していくもので、柔軟性がある。この場では、この使い方が作家にとってはベストだったのだと考える。原理原則を無理強いしない姿勢には好感が持てた。





『永遠のジャンゴ』

 1943年、ナチス占領下のパリで、ギタリストのジャンゴ・ラインハルト(レダ・カテブ)は毎晩のように満席のホールを沸かせていた。しかしナチスによるジプリー迫害は厳しくなり、ジプリー出身であるジャンゴの身も危うくなる。昔馴染みのルイーズ(セシル・ドゥ・フランス)の手引きでスイスとの国境にほど近いトンン=レ=バンに身をひそめるが、そこにもナチスがやってきた。ジャンゴはナチス官僚が集うパーティーで演奏しろと命じられる。監督・脚本はエチエンヌ・コマール。
 ジャンゴの演奏は聴いていると踊らずにはいられないものだ。しかしナチスは「踊らせる」要素、音楽の高揚感は悪しきものとして扱う。ジャズは黒人の音楽だからダメ、演奏しながら足でリズムを取るのはダメ、シンコペーションは5秒以内等、アホじゃないかというオーダーなのだが、ナチスは大真面目だ。音楽を過大評価しているようにも思えるが、人の心を煽るもの、熱狂させるもの、そして自分たちにコントロールできないものの力を危険視していたというのは分かる。だったらもっと早い段階でジャンゴも取り締まられていそうなものだが、ナチスの中にも音楽好き、ジャズマニアはいて、彼らが後ろ盾になっている。統制のとれたナチスという組織の中からも、音楽という要素によりはみ出てくるものがある。ある種の抗えなさが、音楽の力なのだろう(逆に、音楽の高揚感が人々の統率に使われることもあるが・・・)
 クライマックスで、ジャンゴはギター1本でナチスに対抗しようとするのだが、彼の音楽が高まっていくにつれ、その場の雰囲気がだんだん「ナチスの官僚が集う会」からずれていき、高揚が拡散されて乱痴気騒ぎ感が強まっていく感じにはワクワクする。ジャンゴのヒーロー性が発揮されるシーンでもある。しかし、彼が音楽で救えるのはほんのわずかなものだ。彼が作曲するジプシーの為のレイクエムは、自分と音楽が見殺しにしてしまった存在への贖罪でもあったのだろう。
 逮捕されたジャンゴが、体の測定をされるシーンがある。体を勝手に触られる、解釈されるのは、強い屈辱であり傷つくことだ。こういうシーンを見ると体温がさーっと下がる気がする。



神々と男たち [DVD]
ランベール・ウィルソン
紀伊國屋書店
2011-10-29



『リュミエール!』

 1895年12月28日、撮影と映写の機能を持つ「シネマトグラフ」で撮影された映画『工場の出入り口』などが上映された。撮影したのはシネマトグラフの発明者でもあるルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟。本作はリュミエール兄弟が撮影した短編映画で構成された、「映画の父」へのオマージュ作品。監督はリュミエール研究所のディレクターを務めるティエリー・フレモー。
 1895年から1905年の10年間に撮影された1422本の短編映画(1本約50秒)のうち、108本から構成された本作。有名な『工場の出入り口』はもちろん、リュミエール社のカメラマンによって海外で撮影された映像も含む。リュミエール兄弟(とリュミエール社)の作品を纏めて見られる機会はなかなかないと思うので、貴重な1作なのでは。なお映像は4Kデジタルで修復されており非常にクリア。一見の価値はある。
 「映画」は最初から「映画」なんだな!と『工場の出入り口』を見てちょっと感動した。題名の通り、工場の門から工員たちが出てくるだけの映像なのだが、これは「映画」だなと思わせる何かがある。しかもこの作品複数バージョンがあるのだが、バージョンが進むにつれ全体の構造がより「映画」的な、最後にちゃんとクライマックスが用意されたものになっていくのだ。リュミエール兄弟は最初から映画はこういうものだ!という風には考えてはいなかったろう(そもそも映画という概念がまだなかったはず)。しかし、最初から映画のセンスを持った人たちではあったんだろうと思う。奥行を意識した構図、対象物の動き、カメラの移動といったものが、短編作品を重ねるにつれどんどん構築されていくのがとても面白かった。基本的な構造は、既に現代の映画と変わらない。
 海外での映像など顕著なのだが、知らないものを見たい・見せたいという初期衝動みたいなものに満ちている。わずか1分足らずの作品だが、熱量があるのだ。そこで動いているものをただ撮影するのではなく、動きの演出、ストーリーの付与、トリック撮影等がどんどん盛られていく。こういうこともできるぞ!という発見の連続だったのだろう。その驚き、新鮮さがちょっとうらやましい。



エジソンと映画の時代
チャールズ・マッサー
森話社
2015-04-08

『パーティーで女の子に話しかけるには』

 1977年のロンドン郊外。パンクロックを愛する少年エン(アレックス・シャープ)は、友人と一緒にパーティー会場らしき一軒家にもぐりこむ。そこで出会ったのは不思議な少女ザン(エル・ファニング)。エンはあっという間に恋に落ちるが、2人に残された時間は48時間だけだった。監督・脚本はジョン・キャメロン・ミッチェル。
 ボーイミーツガールであり未知との遭遇である。ザンは何と宇宙人なのだ。女の子に声をかけるだけでもエンのような子には相当な勇気がいるのに、更に宇宙人だなんて、二重の意味での異種間交流でまあ大変である。未知のもの・異文化の存在と交流する緊張感と戸惑いという点では、相手が女の子だろうと宇宙人だろうとそう変わりはないのかもしれない。エンとザンのやりとりはちぐはぐなのだが、互いの異文化(エンにとってはザン、ザンにとっては地球の文化)を知りたいという情熱によって一体化する瞬間がある。
 エンとザンの架け橋になるのはパンクロックだ。破壊と混沌(からの創造)を志向するパンクは、ザンたち異星人の文化とは真逆にあるもの。ザンらの社会は秩序と調和により維持されてきたが、滅びつつある。それをかき乱し、カオスの中から新たな息吹を与えるのがパンク。わかりやすい対比だが、エンとザンが一緒にステージに立った時の高揚感、何かがはじける感じは、確かに「生まれてくる」感ある。ただ、「生まれる」ことを母性と直結させちゃうのはちょっとどうかな、いまだにそれ使うの?って気はする。生まずとも次の世代を送り出すボディシーア(ニコール・キッドマン)のような存在も登場するが、これはこれで一つの母性の象徴だろうし。いい加減そこから離れた表現が見たいなとは思った。
 ともあれ、エル・ファニングの可愛らしさが異常かつ存在感が強烈で、それだけでも見る価値ありそう。脇とか首とか触らせられて、これはエンもたまらんよな!

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]
ジョン・キャメロン・ミッチェル
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2017-10-18


成恵の世界 コミック 全13巻完結セット (カドカワコミックス・エース)
丸川 トモヒロ
角川書店(角川グループパブリッシング)
2013-02-21

『希望のかなた』

 シリア難民の青年カーリド(シェルワン・ハジ)はフィンランドのヘルシンキへ流れ着く。生き別れた妹を探しこの国で暮らしたいと願うが、難民申請は却下されてしまう。自警団に暴行を受けた彼を助けたのは、レストランオーナーのヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)だった。監督はアキ・カウリスマキ。
 カウリスマキの映画は余計なことをしないのでテンポがいい(段取がいいと言った方がいいか)、しかし見ている側の体感としてはのんびりしているという不思議な面白さがある。本作もさくさく物事が進むが決して「速い」という感じではない。このへんの間の取り方が唯一無二の所以だろう。映画にとって最小限に必要なものの選別がすごく的確なのだ。カウリスマキの映画を観ていると、映画って記号の組み合わせなんだなと実感する。動作・所作のひとつひとつが文字通りのものであり、男は男、女は女、犬は犬、金は金だ。その記号ひとつひとつをどう見せるか、どう組み立てるか、どのパーツを使うのかによって、単なる記号からはみ出していくものがあり、そこに映画としての強さが生まれるのかなと思う。ヴィクストロムが資金調達する方法など、他の監督だったらこれはちょっとご都合主義すぎでは・・・と避けてしまいそうだけど、カウリスマキは堂々とやるし、ご都合主義に見えない。
 カーリドは紆余曲折の上、たまたまヘルシンキに流れ着く。母国に送還されそうになった為逃げだすが、そんな彼を助けるのがヴィクストロムとレストランの従業員たちだ。助けるとはいっても、積極的に親切にしようとか善意に燃えているとかいう風ではなく、助けるのが普通のことだからやる、というように見える。善意が平熱なのだ。彼らのように親切な人がいる一方で、暴力を働く極右団体はいるし、難民申請の結果はシリアの現状を踏まえたとは思えないものだ。しかし、カーリドもヴィクストロムも不寛容さや困難さには屈さず、控えめに抗い続ける。ヴィクストロムのやり方は、抗い方というよりすり抜け方ではあるのだが、目的が正しければ小さいことは気にしなくてよし!と言わんばかり。人間の善意と知恵に対する信頼、あるいはそうであれという祈りのようなものを感じた。カウリスマキ作品はほろ苦さ、ペーソスが持ち味と思っていたが、本作はストレートな希望へ向けた物語。黄昏ている場合ではないということか。
 私にとってカウリスマキ作品と言えばまずそうな食べ物、謎の日本要素だが、本作にもちゃんと登場する。今回はまずそうな食べ物と日本要素が一体化しているが、まずそうな感じ、失敗感が生々しい。一方でカウリスマキ監督作にしてほぼ初めてと思われる、ちゃんとおいしそうな料理が登場する。作っているのは各国からの難民なので、フィンランドのおいしい料理じゃないんだけど・・・。

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『探偵はBARにいる3』

 札幌、ススキノでトラブル解決に奔走する探偵(大泉洋)と相棒・高田(松田龍平)。高田の大学の後輩が、失踪した女子大学生・麗子(前田敦子)の捜索を依頼してきた。調査に乗り出した探偵は、表向きはモデル事務所の怪しげな組織に辿りつく。そのオーナー、岬マリ(北川景子)は探偵を翻弄するのだった。原作は東直己の「ススキノ探偵シリーズ」。監督は吉田照幸。脚本はシリーズ1,2に引き続き古沢良太。余計なサブタイトルを付けなかったのは正解だと思う。
 本シリーズ、大泉洋がパンイチになるのがお約束なんでしょうか。今回かなり寒そう!これは厳しい(笑)!前作では往年の東映映画のごとくいきなりお色気要素を投入してきてどうした?!と思ったが、今回は控えめ。脱ぐのはほぼ大泉のみで、全年齢向き、ゴールデンタイムでのTV放送OKな画になっている。
 シリーズ3作目ということで、作品フォーマットがほぼ固まっている。とある事情を抱えた美女が探偵を翻弄し、ミステリとアクションと笑いとちょっと人情と涙、という定番。シーズン商品として1年に1本くらい見られると嬉しい。ほどほどに気を抜いて見られる面白さ度合いもちょうどよい。アクションは1,2作目に比べるとちょっと控えめ、かつあまり効果的な見せ方ではないように思え(スロー中途半端に使いすぎで、せっかくそこそこ長いシークエンスなのにぶつ切りされているように見える)、少々残念だった。ともあれ東映の定番として今後も続いていくといいな。
 毎回女性が物語の鍵を握るシリーズだが、今回は3人の女優がそれぞれ役柄にはまっていて魅力的。北川景子ってやっぱり美人なんだな・・・。麗子役の前田は、計算高いがあっけらかんとした女性を演じると非常にハマっており、やはり筋がいい。またマリの過去を知るかつての同僚(というか先輩)モンロー役の鈴木砂羽はどっしり構えた貫禄と気の良さが感じられる演技。今回のメイン登場人物であるマリはもちろんだが、麗子もモンローもキャラクターの存在感、こういう人なんだろうなと想像させる厚みがあってなかなか好感が持てた。
 マリの行動の動機がどうにもやるせなく切ない。他人から見たらバカみたい、何の意味もないように見えるかもしれないが、本人にとっては大真面目で、人生を賭ける価値がある。傍から見たら意味がない・得がないとわかっていても、突き動かされるようにやらざるを得ない、やらずにはいられない人が出てくる物語が自分は好きなんだなぁと改めて思った。それを否定しない探偵の悔恨と優しさが染みる。このシリーズ基本的に、この世から落っこちそうな人を探偵が助けようとする話なんだよな。

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『オープン・シティ』

テジュ・コール著、小磯洋光訳
 若い精神科医である私は、マンハッタンを歩き回る。老いた恩師や偶然出会った幼馴染との交流、日々面談する患者たちとのやりとりと、アメリカ同時多発テロを経たマンハッタンという町、そして故郷であるナイジェリアの歴史と文化が交錯していく。
 散歩をしている時が一番考え事をしやすいという人は一定数いると思うが(私もだが)、「私」もそうした1人なのだろう。散歩小説とでも言いたくなる。もちろん恩師を見舞ったり、旅行に行ったりと色々なことをしているのだが、それらをリアルタイムで語るのではなく、後々散歩しながらつらつらと思い出していくようなスタイルだ。自分の体験やその時の思考の流れと、語り口とに一定の距離感があり、個人的な事柄も歴史的な事柄も並列され、繋がっている。観察者としての視点が強いのだ。しかし語り手が観察者に徹していられるほど、この世界はシンプルではない。突如として暴力にさらされ、また自身が加害者になり得る。「私」は被害者としての自分については客観的に言及するが、加害者としての自分には一切言及しない。この差が、観察者に徹する事が不可能であるということであり、その言及のなさはショッキングでもあった。それに言及していくことが歴史を学ぶということでもあるのだろうが、「私」はまだそこに至っていないのだ。





『gifted ギフテッド』

 母親を亡くした7歳のメアリー(マッケンナ・グレイス)は叔父のフランク(クリス・エヴァンス)と暮らしている。気が進まないながらも小学校に通うことになったメアリーだが、彼女に突出した数学の才能があることに気付いた担任教師ボニー(ジェニー・スレイト)は、才能を伸ばす教育を受けた方がいいのではとフランクに告げる。フランクは姉の遺言に従い、メアリーには普通の子供として生活をさせたいと考えていた。しかし2人の居所を知ったフランクの母イブリン(リンゼイ・ダンカン)が孫に英才教育を施すため、親権を奪おうとする。監督はマーク・ウェブ。
 メアリーは数学の天才だが、天才にしろ凡才にしろ、子供を育てる、子供と生活するのはかくも大変なものか。フランクはメアリーのことを愛し真摯に育てようとしているし、実際、結構立派に保護者をやっている。メアリーもフランクによく懐き、親子のようでもあり相棒同士のようでもある。とは言え彼は独身男性で、自分の為だけの時間もほしい。「(金曜の夜から)土曜の昼までは家に入らない約束」というのはそういうことなのだ。彼は約束を破ったメアリーについ怒鳴ってしまう。子供の保護者としての生活と一個人の成人男性としての生活は両立しない部分もある。かといって全てを子供に捧げるのが正しいのかというと、そういうわけでもないだろう。そもそも、何をやれば子供にとってベストなのか。
 子育ての難しさは、子供にとって何がベストなのかということが、後追いでしかわからないという所にあるのではないかと思う。フランクの姉が辿った人生は、正にそういうことだろう。フランクの教育方針とイブリンの教育方針は衝突するが、2人ともメアリーにとってよかれと思ってやっていることには違いない。しかしどちらが最適なのか、あるいはどちらも最適ではなかったのかは、メアリーが成長してからでないとわからない。日々ギャンブルみたいなものではないか。その時その時を手探りでやっていくしかないことのしんどさをちょっと感じてしまった。責任重大すぎる。正解がわからないまま延々と続くのって、なかなかきついだろうしな・・・。
 また、親は子供に自分が歩めなかった(歩まなかった)人生を歩んでもらいたいと、つい思ってしまうところに、如何ともし難い業を感じた。イブリンの情熱は、彼女やその娘が送れなかった人生に対する執着とも見える。彼女が提示する人生がメアリーにとって幸せかどうかはわからないんだけど。


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2017-07-05



『KUBO クボ 二本の弦の秘密』

 魔法の三味線の音色で折り紙を操る片目の少年クボ(アート・パーキンソン)は、病んだ母とひっそりと暮らしていた。母は、祖父である月の帝(レイフ・ファインズ)がクボの片目を奪い、もう片方の目も奪う為に探し続けていると言う。ある日、母の言いつけを破り日が暮れても家に戻らなかったクボは、魔力を持つ伯母たち(ルーニー・マーラ)に見つかってしまう。監督はトラビス・ナイト。
 両親を亡くした少年が、自分の出自の秘密を知る為に旅に出るという王道の冒険ファンタジー。制作は『コララインとボタンの魔女』等を手掛けたアニメーションスタジオ・ライカ。緻密なストップモーションアニメの凄みを見せてくれる。キャラクターの質感や、風景の作りこみ(海の波の表現が素晴らしい)には唸るしかない。あまりに動きがスムーズで緻密なので、果たしてこれをストップモーションアニメでやる必要があるのか?むしろストップモーションとしての面白みが削がれているのでは?という疑問が沸くくらい。技術的に素晴らしいのはすごくよくわかるのだが、なぜこの技術でこの作品を作るのかという部分でひっかかってしまった。折り紙の味わいとかは人形アニメーションならではかもしれないが・・・。
 ストーリーの展開は割と単調、かつ伏線の使い方がぎこちなく、少々退屈だった。アニメーション技法を鑑賞するには複雑なストーリーではない方がいいのかもしれないけど、クボの目の秘密にしろ、月の帝が結局何をしたかったのかにしろ、曖昧なままだったように思う(途中ちょっとうとうとしてしまったので、ちゃんと説明されていたならごめんなさい・・・)。ストーリー的にすごくいい部分もあるので中途半端な伏線の使い方がもったいない。物語をもって自分を理解する、他者を助ける(皆で「彼」に物語をわけてあげるのちょっとすごいと思った)という部分にもっと寄せていってもよかったんじゃないかなぁ。比較的シンプルな話なのに妙に整理されていない印象を受けた。
 冒険物語でありつつ、哀愁が漂う。「お供」として彼を助けるサル(シャーリーズ・セロン)とクワガタ(マシュー・マコノヒー)の正体には泣かせられる。それでもなお、という去っていかざるを得なかった人たちの気持ちが染みてくるのだ。そして彼らがいたこと、彼らに愛されたことの記憶こそがクボを助けることになる。






『リラとわたし ナポリの物語Ⅰ』

エレナ・フェッランテ著、飯田亮介訳
 リラが姿を消したと、彼女の息子から電話が入った。長年の友人である私の元に彼女がいるのではと疑ったのだ。リラと私は6才の時に出会い、私は彼女の個性と才能を羨みつつも憧れ、以来ずっと友人同士だった。
 アメリカとイタリアでミリオンセラーになったそうだが、確かに面白く納得。いわゆる派手で展開の速いエンターテイメント小説ではないが、「私」とリラが成長し変化していく、2人の関係も変わっていく様にぐいぐい読まされた。大きな物語の流れというよりも、「私」の内的な変化と外的な変化の軋轢、小さな緊張感のようなものに惹かれる。「私」が自分を取り囲む物事の様々な様相に気付いていくが、リラはその触媒のような存在でもあり、一番近い他者とも言える。そしてその様相が何を意味するものだったのか、成長するにつれ気付き、解釈が変わっていく過程にはどこか痛みもある。子供時代の火花のような強烈なきらめきは消えてしまう。しかし成長する、大人になるということは、また別の世界が見えてくるということでもあるのだ。
 「私」はリラの頭の良さや文才に憧れ、何とか彼女に追いつこうとする。しかしリラは、「私」が並ぼうとするとすぐに別のレベルに移動してしまう。友人と言っても近くて遠い。どんどん美しくなるリラは、やがて「私」とは別の世界を生きるようになる。一つの感情では表しきれない、その距離感の描き方が巧みだった。





『婚約者の友人』

 1919年、ドイツの田舎町に暮らすアンナ(パウラ・ベーア)は、フランスとの戦いで死んだ婚約者フランツ(アントン・フォン・ルケ)の墓に通っていた。アンナには両親がおらず、フランツの両親と共に暮らしていたが、医者であるフランツの父ハンス(エルンスト・ストッツナー)と母マグダ(マリエ・グルーバー)もまた、息子の死から立ち直れずにいた。ある日アンナはフランツの墓に花を手向ける男性を見かける。フランスから来た彼の名はアドリアン(ピエール・ニネ)。戦前のパリでフランツと知り合ったと言う。監督はフランソワ・オゾン。
 一見、死んだ婚約者の友人に徐々に惹かれていく主人公という、王道メロドラマのように見える。アンナを演じるベーアの素朴さが残る美しさ、アドリアンを演じるニネの繊細な美男ぶりも、いかにもメロドラマ風。しかし、予想していたのとは相当違う方向に反転していく。このハンドルの切り返しが見事だった。オゾン監督はたまに迷走するけど、本作ではばっちり狙った所に球が入ったな!という感じ。
 本作を見ていて、映画の作風としては全く違うが、先日見た『人生はシネマティック!』を思い出した。フィクション、物語が人の心を助ける話だからだ。しかし本作はその更に先、彼岸まで行ってしまったように思う。くそみたいな現実よりも、美しい嘘を生きて何が悪い、生きれば嘘も現実も同じではないか。だったら自分が生きていると実感できる方を生きてみたい。この世への諦念みたいなものに、どうにも身につまされる所があり、少々辛かった。
 戦争(後)映画としても、ドイツとフランス双方の意識が垣間見られて興味深かった。実際こういう感じだったんだろうなという説得力がある。ドイツは敗戦国、フランスが戦勝国ということになるのだが、勝った負けたというよりも、自国民を殺されたというお互いへの敵意がぴりぴりとまとわりつく。互いに自分が被害者、相手が加害者という意識が拭えない。おそらくアドリアンはドイツにいる間は居心地が悪かったろうし多少危うさを感じたろうが、アンナもまた、それを感じることになる。同じ立場に立ってみないとわからないのだ。この点も含めて反転具合が見事だった。



やさしい嘘 デラックス版 [DVD]
エステール・ゴランタン
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2005-03-11


なぞの娘キャロライン (岩波少年文庫)
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岩波書店
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『ジャスティス・リーグ』

 スーパーマン(ヘンリー・カヴィル)が死んだ世界では、彼を悼む人々がいると同時に暴力が蔓延しつつあった。バットマンことブルース・ウェイン(ベン・アフレック)は、地球に近づきつつある脅威、ステッペンウルフと闘う為、ワンダーウーマン(ガル・ガドット)と共に仲間となる超人たちを探していた。集まったのは海をつかさどるアクアマン(ジェイソン・モモア)、機械の体と電脳を持つサイボーグ(レイ・フィッシャー)、超高速で移動できるフラッシュ(エズラ・ミラー)。しかしお互いに話がかみ合わずチームワークはばらばらだった。監督はザック・スナイダー。
 『バットマンv.s.スーパーマン ジャスティスの誕生』に引き続き、DCコミックのスーパーヒーローたちが集結する。相変わらずお話は大味・大雑把で、突っ込み所は山のようにある。とは言え、前作のような妙な間延びや仰々しい1枚画的シーンが割愛されているので、だいぶ見やすい(前作比)。ストーリー展開については、やはりマーヴェルに及ばないあたりが厳しいのだが・・・。きょうび「強大な悪」の設定ってなかなか難しいし敵も複雑化せざるをえないわけだが、本作の敵は非常にわかりやすく「悪」で、こんなにシンプルなの久しぶりに見た気がする。そして強いんだか弱いんだかわからないな・・・。あれだけ強大な力アピールしておいて、最後それってどうなの。
 今回、そういえばバットマン(ブルース)ってそこそこ中年だったんだなということを初めて実感した。歴代のバットマンの中で、最もお疲れな感じのバットマンなのでは。残り時間の少なさが切実なのだ。そもそも他の超人たちとは異なり肉体的には一般人なので、もう肉体はボロボロ、精神的にもスーパーマンロスから立ち直れていない感じで、見るからに危なっかしい。後々のスーパーマン絡みでのやりとりから見るに、相当ショックだったし本気でなんとかしたかったのね・・・。ただでさえ少なそうな語彙が更に少なくなっている・・・。
 ワンダーウーマンは単作『ワンダーウーマン』とちょっとキャラが変わっていないか?と思ったのだが、『ワンダーウーマン』の時代から100年近く経っているからそりゃあ変わるなとも。アクアマン、サイボーグについては、本作ではまだ十分描けていない。スピンオフ作品を作る予定なのかな?だとしても、もうちょっと本作内で彼らの背景を見て見たかった。対して本作で得をしているのはフラッシュだろう。重め・暗めトーンの本作でアクセントとなるコメディ担当要員として、上手く使われているように思う。良く喋るし、よく食べるし、空気読めないし、まだ子供っぽい。演じるエズラ・ミラーのチャーミングさ(とりあえずフラッシュちゃんの為だけににもう1回見てもいい・・・!と思えたくらい)と相まっていいキャラクターだった。



ジャスティス・リーグ:誕生(THE NEW 52!) (ShoPro Books THE NEW52!)
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小学館集英社プロダクション
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『GODZZIRA 怪獣惑星』

 20世紀末、巨大怪獣が出現し人類を脅かすようになった。その中でも特に強大なゴジラにより、住む場所を失った人類は宇宙船で地球を脱出する。しかし20年後、移住先惑星は見つからず船内の物資も乏しくなっていた。船内での生活に耐えきれず、ゴジラへの復讐に萌えるハルオ・サカキ(宮野真守)を中心とする地球帰還派の声が大きくなっていた。リスクを侵し長距離亜空間航行で地球に帰還した一同だが、地球上では2万年が経過し、ゴジラの影響下で生態系は激変していた。監督は静野孔文・瀬下寛之。脚本は虚淵玄。なお全3部作。
 サカキのテンションの高さ、ゴジラへの強烈な粘着片思いにややひきつつも、面白く見た。思い込み激しいクレイジー系主人公は、『進撃の巨人』に始まり近年のスタンダードになっているのだろうか。圧倒的に巨大なものに脅かされ絶望的な状況というもの『進撃~』ぽいが、こういうシチュエーションが一つの定番になっているということだろう。
 とは言え、本作のゴジラはちょっとゴジラのインフレ化がすぎるように思う。いくらなんでも強すぎ、大きすぎだろう。『シン・ゴジラ』どころではなく勝てる気がしない。これ、本当にちゃんとオチがつくのかな・・・。作中設定ではわずかながらも弱点が!ということになっているのだが、その説明が結構雑というか、説得力がない(あえて説得力がない演出にしている可能性が高いが)ので、人類が見切り発車で無謀な賭けに出たようにしか見えない。そもそも過去映像のみからそんな解析可能なの?!とかそんなに充実したアーカイブあるの?!とか色々と突っ込みたくなるのだが、どこまでが脚本上の演出でどこまでが単に大雑把なのか現状よくわからない。
 アニメーション制作を手掛けたポリゴンピクチュアズの仕事を見ると言う面でも、とても面白かった。ポリゴンピクチュアズと言えば3DCGアニメーション制作だが、一つの作品でトライしたことを必ず次の作品に活かしてくるという印象なので、作品を続けて見ているとどんどん進化していることがわかる。本作は予算も比較的潤沢なのか、結構豪華な絵の作りだと思う。

シン・ゴジラ DVD2枚組
長谷川博己
東宝
2017-03-22


『BLAME!』Blu-ray(初回限定版)
櫻井孝宏
キングレコード
2017-11-01


『ローガン・ラッキー』

 脚が不自由なことを理由に工事現場での仕事をクビになったジミー・ローガン(チャニング・テイタム)は、イラクで片腕を失った元兵士の弟クライド(アダム・ドライバー)と一攫千金を企む。アメリカ最大のモーターイベント、NASCARレース会場に集まった現金を強奪しようというのだ。美容師でカーマニアンの妹メリー(ライリー・キーオ)も計画に加え、爆破のプロとして服役中のジョー・バング(ダニエル・クレイグ)に協力を求める。監督はスティーブン・ソダーバーグ。
 ソダーバーグの映画監督復帰第1作。小気味良い快作で、脚本(レベッカ・ブラウン)にほれ込んだと言う話にも頷ける。想像していたよりも1ターン多い感じというか、ちょっと長すぎないかなとは思ったが、登場人物が皆生き生きとしていてとても楽しかった。俳優が活かされているなぁと嬉しくなる。テイタムにしろドライバーにしろ、二枚目のはずなのに何とも言えない情けなさ、ボンクラ感を漂わせていている。また、久しぶりにチープかつ悪そうなダニエル・クレイグを見ることが出来てうれしい。刑務所の面会室で「服・役・中・だぞ」とやるシーンが妙にツボだった。ジョーはなかなかいいキャラクターで、爆破準備中に壁に化学式を書いて説明し始める所とか、見た目に寄らず几帳面で妙に可愛い。
 ローガン一族はやることなすこと上手くいかない、不幸な星のもとに生まれているのだとクライドは悲観している。実際、ジミーは失職し別れた妻との間にいる娘ともなかなか会えなくなりそうだし、携帯は通話料延滞で止められているし、色々と詰んでいる。クライドも、兄弟内で最もタフそうなメリーも傍から見たらぱっとしない。そんな彼らが一発逆転しようと奮起するので、犯罪ではあるがついつい応援したくなる。本作の語り口も、彼らの抜けている所を見せつつも、バカにしたり断罪したりはしない。意外に優しい視線が注がれている。根っからの悪人はおらず、犯罪者であっても彼らなりのマナー、良心がある。ジミーの作った「リスト」が意外とストーリーに反映されているにはにやりとさせられた。筋が通っているのだ。
 ソダーバーグ作品はクール、知的、スタイリッシュというイメージで、当人も労働者階級という感じではない(育つ過程でお金の苦労はしていなさそう・・・)のだが、泥臭い世界、お金のなさの実感、あるいはアメリカの「地方」感を意外と上手く描くし、そこに生きる人たちへの誠実さがあるように思う。本作、泥棒という要素では『オーシャンズ11』を連想するが、どちらかというと『エリン・ブロコビッチ』寄りかな。

トラフィック [DVD]
マイケル・ダグラス
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2001-12-21


エリン・ブロコビッチ コレクターズ・エディション [DVD]
ジュリア・ロバーツ.アルバート・フィニー.アーロン・エッカート
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2007-07-25

『人生はシネマティック!』

 第二次大戦中の1940年、ロンドンで秘書をしていたカトリン・コール(ジェマ・アータートン)は、軍のプロバガンダ映画の脚本チームに採用される。コピーライター不足の為に彼女が代理で書いたコピーが、情報相映画局特別顧問トム・バックリー(サム・クラフリン)の目に留まったのだ。脚本の内容は、ダンケルクでドイツ軍の包囲から兵士を救出した姉妹の感動秘話。しかしベテラン俳優の我儘や政府と軍による検閲と横やりなどにより、制作は難航する。監督はロネ・シェルフィグ。
 すばらしい!オーソドックスに見えるし実際オーソドックスなのだが、様々な要素が盛り込まれており、色々な側面から見ることができる。これだけ多面的な要素を盛り込み、かつごちゃごちゃした印象になっていないところに技がある。ただ、色々な立場、性別、年齢の人が登場するが、それは本作の部隊が戦時中で、(若い)男性が足りなくなっているからだという面もあり、そういう非常時にでもならないと多様性は見えてこない時代だった(現代もかもしれない)ということでもある。本来女性であろうが男性であろうが、工場で働けるし、脚本を書けるし、船の修理が出来るのだ。
 人が映画を観るのは、映画の中の出来事には理由がある、全部意味があるからだとトムは言う。現実では意味のわからない、脈絡のない不幸が多々生じる。せめて映画の中でだけは物事に意味があると納得したいのだ。この気持ちが痛切に身に染みた。この台詞が象徴するように、人はなぜフィクションを求めるのかという問いに対する、答えのような作品だったと思う。本作、フィクションを作る人たちの側の物語であると同時に、フィクションを受容する人たちの側の物語でもある。もちろん、作る人は受容する人でもあるのだ。カトリンは自分とトムとのやりとりを脚本として再現・再構築し、またそれこそ「意味の分からない」不幸が襲ってきた時も、物語によりそれを乗り越えようとする。フィクションが人の生活、人生を直接的に助けることはあまりないだろう。しかし、折れそうな心をフィクションが支えたり、迷っている人の背中をフィクションがそっと押すこともある。それこそ、「双子」のような人生の変化もありうるのだ。

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アンダース・W・ベアテルセン
ジェネオン エンタテインメント
2004-09-03



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