3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『影のない四十日間(上、下)』

オリヴィエ・トリュック著、久山葉子訳
 トナカイの放牧にまつわる所有者同士の揉め事、密猟や盗難を扱い、三か国にまたがって活動する「トナカイ警察」。トナカイ警察としてノルウェーに配属されているクレメットとニーナは、1人のサーミ人トナカイ所有者が殺害された事件に直面する。殺された男は酒に溺れ、他のトナカイ所有者ともトラブルを起こしていたらしい。一方、世界的にも貴重な文化遺産であるサーミ族の太鼓が博物館から盗まれるという事件が起きる。殺された男は数少ないサーミの太鼓の作家でもあった。
 北欧ミステリの中でもかなり異色の作品だろう。ローカル色がかなり濃厚だ。題名の「影のない四十日」とは極北の冬のうち、太陽が昇らない期間を指す。各章の間で日付が変わると、日付と日の出・日の入り時刻、日照時間が記載されるのだが、日照時間が短い!当然冬は極寒なので、冬でもそれなりに日照時間がある土地の人たちとはメンタリティが相当違いそうだ。また、かつて白人の入植者たちがサーミに対して行った迫害や現在でも続く軋轢、廃れ行くトナカイ放牧の現状等、歴史的、文化的背景が色濃く表れてくる。これらが単に舞台背景というだけではなく、事件に繋がってるのだ。
 そもそも事件を追う「トナカイ警察」は、その名の通りトナカイ放牧に関係した犯罪を調べることが主業で、殺人事件などは範疇外なのだ。クレメットは過去に警察官として大きな事件の捜査に携わった経験があるという背景はあるものの、2人の不慣れかつ地道な捜査が続く。また、クレメットはサーミ人だが家の方針でサーミの文化にはなじみが薄いまま育った。ニーナは新任として都会からやってきた身で、地元の知識はない。2人とも多かれ少なかれこの土地ではよそ者だ。サーミにも根っからのノルウェー人にもなれないクレメットのアイデンティティの苦悩も描かれるのだが、その地元からちょっと距離を置いた視点が、読者を作品に入りやすくしているように思った。2人の視線が読者の視線と重なる。
 なお、トナカイ警察は実在するが、実際のトナカイ警察はノルウェーにしかないそうだ。

影のない四十日間 上 (創元推理文庫 M ト 10-1)
オリヴィエ・トリュック
東京創元社
2021-11-11

影のない四十日間 下 (創元推理文庫 M ト 10-2)
オリヴィエ・トリュック
東京創元社
2021-11-11

サーミの血 [DVD]
オッレ・サッリ
TCエンタテインメント
2018-06-06


『レニーとマーゴで100歳』

マリアンヌ・クローニン著、松村潔訳
 重い病気で余命宣告をされ入院中の、17歳の少女レニー。病院内でレニーは83歳の老婦人マーゴと知り合う。病院内のアート教室に参加した2人は、2人の人生を合わせた100年を絵に描くことにする。
 レニーとマーゴは孫と祖母くらいに年齢が離れている。しかし2人は死が近いという共通項がある。死ぬことに先輩も後輩もなく、ある意味平等だ。とは言えレニーとマーゴではこれまで生きてきた長さが違う。レニーはマーゴの83年を彼女と分け合うことで、100年相当に濃縮された、自分が実体験していない未来をも含めた17年を生きられたのではないかと思う。一方でマーゴもレニーの計画に乗って自分の人生を振り返ることで、過去の自分の思い残しを掘り起こし、もう一度今の人生に引き寄せることができた。年齢を超えた友情が2人の人生を良きものにする、というか人生の良さに気付かせるのだ。友人関係に年齢は関係ない、お互いへの愛と尊重が大事なのだとしみじみと感じる。
 レニーは才気走っており聡明なのだが、才気で自分の不安をガードしているようにも見える。神父との問答や看護師たちとのやりとりは、レニーが自分の理屈で相手をやり込めようとする「イキり」が見えて生意気であると同時にほほえましい。彼女が死に向かう恐怖をイキりで抑え込もうとしていることがわかるだけになおさらだ。最初は頼りなげでレニーのこともあまり理解していないのでは?と思われた神父が、実際は彼の相手の話を否定せず聞く、自分を押し付けないという態度がレニーの救いになっていたことがわかってくる。「聞く」態勢をキープするのって実は難しいんだよなと。

レニーとマーゴで100歳 (新潮クレスト・ブックス)
マリアンヌ・クローニン
新潮社
2022-01-31


幸せなひとりぼっち (ハヤカワ文庫NV)
フレドリック バックマン
早川書房
2016-10-21


『すべての月、すべての年』

ルシア・ベルリン著、岸本佐知子訳
 シングルマザーとなった“わたし”は裕福な親族を訪ねるが、実は2人目の子供を妊娠している(「虎に噛まれて」)。夫を亡くした私は久しぶりに旅行に出かけ、海辺の町でスキューバダイビングを教わる(「すべての月、すべての年」)。『掃除婦のための手引書』が日本でも大評判になった作家の新邦訳作品集。
 前作『掃除婦のための手引書』はごくごく短い作品を多く収録していたが、本著はもう少し長めで中編に近い作品が目立つ。中編くらいの長さがあると、構成のうまさをよりはっきり味わえる。この人はこのように見えるけれど、表面を少しずつ削いでいくと実はこういうものを内包している、という人物の見せ方、また複数の人間の関係性の機微・変化の見せ方のように、時間の経過を見せ方に取り込んでいるからだと思う。また、かなり困った状況・悲惨な状況でも悲惨さに溺れない、どこか突き放して距離をとり、時にユーモラスですらあるというクールさも魅力。作品の主人公たち(「わたし」であることが多い)は往々にして、客観的には不幸なシチュエーションにいるのだが、そこに自己憐憫は希薄だ。こうなってしまったからにはしょうがない、みたいな諦念と、安易に感情に溺れさせない文章の自制が感じされる。ただ、乾いたタッチで描かれるからこそ、そのままならなさや悲しさがより読者の胸を打つのだと思う。
 前作でも姉妹の関係を描いた作品が印象に残ったが、本著でも「哀しみ」は同じ路線だ。打ちのめされている地味な妹とそれを励まし支える美しい姉。周囲からはそのように見えているが、最後にはっとさせられる。この人にはこの人の苦しさがあるのだと。また「笑って見せてよ」は恋愛の美しさとどうしようもなさが鮮烈。この人たちのやっていることはどうしようもないかもしれないが責められない。


『長い別れ』

レイモンド・チャンドラー著、田口俊樹訳
 酔っぱらって連れの女性に見放された男、テリー・レノックスを助けた探偵フィリップ・マーロウ。2人は時々酒を一緒に飲む友人同士となった。ある夜、テリーに頼まれメキシコ国境まで送り届けたマーロウは、警察に拘留されてしまう。テリーには妻殺しの容疑がかかっていたのだ。更にテリーが自殺したという知らせと、マーロウ宛のテリーからの手紙が届く。
 チャンドラーの代表作である本作は既に清水俊二、村上春樹訳バージョンが出版されているが、田口俊樹による新訳で読んだ。これまでの日本語訳の中では一番パルプフィクション感があるというか、気取りがない文章なのではないか。チャンドラー初心者は本作から読むといいのではないかと思う。それと同時に、ちょっとした情景の描写(チャンドラーの魅力はむしろここにあると思う。気障で癇に障るという人もいそうだが私はこれが好きだ。ディティールに魅力がある)の詩情やユーモア、皮肉もしっかり味わえる。
 ある女性が初登場する場面で「夢」と称されるのだが、夢とは実体がない儚いものでもある。本作の重要人物となる男性も女性も、ある意味で「夢」だ。この2人、オム・ファタールとファム・ファタールがマーロウを挟んで配置されるという構図だったことを改めて意識させられた。「夢」という言葉は美しいが、摩耗して中身がすかすかになってしまった抜け殻としての「夢」、過去の「夢」でありそこからもう何も生まれないということが悲しいのだ。マーロウも彼・彼女の中に束の間の「夢」を見るわけだが、幸か不幸か彼はやがて夢から覚める。それもまた物悲しいが、夢に甘んじず、自分が傷つくとわかっていても落とし前をつける所がマーロウの生き方の魅力なのだろう。

長い別れ (創元推理文庫)
レイモンド・チャンドラー
東京創元社
2022-04-28



『メイド・イン・バングラデシュ』

 バングラデシュの首都ダッカには世界中の大手アパレルブランドの縫製工場が集まっている。その縫製工場の一つで働くシム(リキタ・ナンディニ・シム)は工場の火事で友人を亡くし、同僚たちも不安を抱えながら働いている。給料は安く残業代も出ず、労働環境は厳しい。シムは状況を変えようと労働組合を結成すべく立ち上がるが、上司からは脅され、同僚や夫からも反対される。監督はルバイヤット・ホセイン。
 バングラデシュに縫製工場が多いのは人件費が非常に安いからだが、どのくらい安く、縫製している人たちがどういう労働環境でどういう生活をしているのかが本作では描かれる。ファストファッションを支えているのはシムのような人たちなのだが、製造現場を見ると手軽に安価な服を買うことに罪悪感を感じてしまう。私にとっての安価・利便性は彼女らを搾取することで成立しているわけだから。かといってそれなりの労働賃金で製造されたものだけ買えるほどの経済力は自分にはなく、貧しさってスパイラルになっているよなとがっくりくる。ほどほどに貧しい人向けのものを作る為に更に貧しい人たちを買いたたくわけだから。
 それはさておき、シムたちの立場が苦しいものなのは、「女性の」労働者であるという側面がとても大きい。彼女が「女性は結婚前も結婚後も自由はない」と口にするのも、同僚が独り身の苦しさを訴えるのも、上司と不倫をした同僚が上司そっちのけで悪女扱いされるのも、労働者としての扱いが粗雑なのも、女性がこの社会の中で置かれている立場を反映しているものだ。女性が一人前の人間であるという意識が希薄な世の中では、そりゃあ生き辛いに決まっている。シムの夫が、自分が稼いでいるんだから妻であるシムは仕事はやめればいいと言い出すのには、そういう問題じゃないんだよ!と怒鳴りたくなるし、実際シムは怒るわけだが。またそうであっても夫の機嫌を伺いながら生活しないとならないというのが、実に息苦しい。
 シムは労働組合について学ぶうち、自分たちの苦しさ・不平等さは声に出して訴えていいものであり、状況を変えるために行動できると気付いていく。彼女の奮闘はなかなか実らないが、どんどん行動的になっていく姿には勇気づけられる。一方で、持っていない者にとっては連帯することが力になる、逆に言うとそれしか武器がないという側面もある。ただ、連帯している仲間が待っているからこそ、彼女は最後に渾身の踏ん張りを見せることができたのだろう。

苦い銭 [DVD]
紀伊國屋書店
2019-01-26


ファストファッション: クローゼットの中の憂鬱
エリザベス・L. クライン
春秋社
2014-05-17


『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM 前編 君の列車は生存戦略』

 2011年にTV放送されたオリジナルアニメーション『輪るピングドラム』全24話を再編集した劇場版作品、前編。双子の兄弟、高倉冠葉(木村昴)・晶馬(木村良平)は、難病の妹・陽毬(荒川美穂)の命を繋ぎ止める為、ペンギンの帽子の形をした何者かの命令に従って「ピングドラム」を探しに奔走する。彼らは日記に記された運命を実現しようとする荻野目苹果(三宅麻理恵)に接触する。監督は幾原邦彦。
 TVシリーズからもう11年かと遠い目をしてしまうが、劇場用に組み立てなおされているとはいえ全く古びていない。TVシリーズとストーリー自体は(多分)同じなのだが、映画として組み立てなおし新作パートも加えることで、違う切り口から新鮮に楽しむことができた。映像、音共にスクリーンに負けない仕上がり。編集もタイトで特に後半の密度、ドライブ感には引き込まれた。
 総集編というよりも別個の作品として作られていると考えた方がいいだろう。実際、冒頭の新作パートを見ると、本作はTVシリーズで物語が一巡した後、「運命の至る場所」から振り返り、おそらく再び始まる構造になっていることが示唆される。
 ただ、その「もう一度」をresetでもrewrirteでもなく、recycleとした所が本作の肝ではないか。高倉家の両親が過去にやったことも、夏芽真砂子が打ち出す記憶を抹消するパチンコも、あったことをなかったことにする、いったんゼロにすることだ。それとは違うやり方、なかったことにはしないやり方で運命を突破できないかというのが、今回の趣旨ではないかとも思った(後編見たら全然違うかもしれないけど)。
 高倉兄弟も苹果も、家族という呪いにかかっている子供たちだったんだと、改めて思った。愛がポジティブなものであっても時に呪いとなる。その呪いを解いていく(あるいは解けない)物語という側面がある。さらっと見せられているが高倉家の状況はヤングケアラー3人(自分たちでケアしあっているわけだから)状態だし、苹果の両親の関係は恐らく破綻している。子供はそれでも家庭の欠落を補おうとしてしまうのかと、なかなかしんどい一面も。

輪るピングドラム 1(期間限定版) [Blu-ray]
夏芽真砂子(堀江由衣)
キングレコード
2011-10-26


銀河鉄道の夜 [Blu-ray]
渕崎ゆり子
KADOKAWA / 角川書店
2014-05-30






『ベルイマン島にて』

 映画監督同士のカップル、クリス(ヴィッキー・クリープス)とトニー(ティム・ロス)は、スウェーデンのフォーレ島でひと夏過ごす為にやってきた。フォーレ島は敬愛するイングマール・ベルイマン監督の居宅があり、彼の作品が撮影された土地でもある。2人はベルイマンが暮らしていた居宅で執筆活動を始めるが、クリスはなかなか筆が進まない。監督・脚本はミア・ハンセン=ラブ。
 クリスとトニーはどちらも映画監督。同業者同士のパートナーだったらお互いの仕事の苦労への理解・共感も深いのでは、と思ったらそうでもないっぽい所が面白くもあり、世知辛くもある。特にこの2人は年齢差があって、トニーがクリスの先輩格(下手すると親子みたいに見えてしまった)という非対称があり、更に創作スタイルも違う。トニーは自分が目指すところへぐんぐん進んでいくのだが、クリスは自分の身を削るような感覚で書いているらしい。この苦しさはおそらくトニーにはわからないのだろうなと思う。同業者同士でも、案外情報共有できないものなのだろう。クリスはトニーに自分の作品の構想を話し、トニーがちゃんと聞いていない・返答しないと怒るが、トニーはトニーなりに誠実に聞いて返答しようとしているようにも思った。彼の対応は同業者としての態度で、個人的なパートナーとしてのものではなかった(クリスは個人的なパートナーとして相談していた)のでは。
 前半はほぼ時系列通りにストーリーが進行する。時間が経つのにクリスの仕事が進んでいない、対してトニーの仕事ははかどりその他のアクティビティも時間の流れに沿って順調にこなしている様子が浮かび上がる。しかしある時点で、クリスの中で自分の映画が「はまる」瞬間が訪れる。作品が自分のものになるというのはこういう感じかとはっとした。この時点からは時系列は必ずしも一定の流れではなく、大幅にジャンプしたり戻ったりする。この、時間の流れの一定しなささ、時間の操作性が映画という媒体の大きな要素の一つだということを意識させられる。
 それにしても、ベルイマン監督が観光資源になっているとは。ベルイマンサファリ(ロケ地などのバスツアー)なんてものもあって、ちょっと笑ってしまった。ベルイマン監督作とのギャップが激しい。ベルイマン作品は夫婦・カップルにとって不吉でしかないのだということは、万国共通の認識だろうが、そのベルイマンの家に映画監督カップルで滞在するクリスたちは、結構心臓が強い。

未来よ こんにちは(字幕版)
エディット・スコブ
2018-11-03


ある結婚の風景 オリジナル版 Blu-ray
ヤン・マルムシュー
IVC,Ltd.(VC)(D)
2015-05-22


『オルメイヤーの阿房宮』

 シャンタル・アケルマン映画祭にて鑑賞。東南アジアの密林にある小屋で暮らす白人男性のオルメイヤー(スタニスラス・メラール)。現地女性との間に生まれた娘を溺愛し、白人としての教育を受けさせようと外国人学校に入れるが、娘はその環境になじめず寄宿舎を飛び出す。原作はジョゼフ・コンラッドの同名小説。監督・脚本はシャンタル・アケルマン。2011年製作。
 原作小説は未読なのだが、おそらく原案程度の使い方で、大幅にアレンジしてあると思われる。時代は一応現代寄りとわかるが、地域については明言されていない。妻がマレーシア生まれという言及があったような気がしたが…。妻はオルメイヤーには全く心を開かず、オルメイヤーも妻を愛することができない。彼にとって妻は異物でコミュニケーションをとれる相手ではないのだ。その分、自分の血をひいた娘を自分の仲間として溺愛していくのだが、娘には娘の文化があり、お互い一方通行だ。異国に住む白人と二つの文化の間に生まれた娘の相剋がはっきりと表面化していく。
 オルメイヤーは娘を愛しているというが、彼の愛は娘が後に言うように言葉だけで、行動が伴わない。娘の為に何かをしたかというと、何もしていない(娘の学費は妻の白人の養父が出していた)。そもそも娘が寄宿学校にいる間、一度も会いに行かなかった。何をもって愛していると言っているのか、よくわからないのだ。更に、彼の言葉だけの態度・形骸化した言動は、家の主としての態度にも見られる。彼は自分がヨーロッパ人である自負を持ち現地の人たち・現地の文化を見下している。典型的な植民地の白人的な態度だ。しかし実際は、現地の使用人たちの助けがないと日常生活もままならないし、財産を手に入れる為に現地のテロリストの力を借りようとさえする。自負に力が伴っていないのだ。植民地に対するヨーロッパという図式はあるのだが、ヨーロッパ側が優越している部分が見えてこない。支配していた側の幻想だけが漂っているようだ。船上で無理やり「ショパン」を歌う姿は滑稽で悲しくなってくる。現地の力の方が強いのだ。

オルメイヤーの阿房宮 (コンラッド作品選集)
ジョウゼフ・コンラッド
八月舎
2003-11T


『アンナの出会い』

 シャンタル・アケルマン映画祭にて鑑賞。新作のプロモーションの為にヨーロッパの町を次々移動している映像作家のアンナ(オーロール・クレマン)。行く先々で関係者と顔を合わせ、会話をし、ホテルに泊まる。監督・脚本はシャンタル・アケルマン。1978年製作。
 アンナがとにかく移動する。映画プロモーションの為の旅だが、旅情的なものが全くない。色々な都市を巡っているはずなのに、都市の個性や特徴、魅力はあえてそぎ落とした絵になっている。町もホテルも無個性で、移動しているのに毎回同じような場所にいるようにも見えてくる。アンナの移動手段は主に電車なのだが、通り過ぎる駅、降りる駅がまた殺風景。夜の無人の駅の殺伐とした雰囲気はそれはそれで魅力的なのだが、旅情を封印した旅行映画という感じだ。人物は概ね真正面・真後ろ・真横から撮り、画面のは往々にして左右対称でフレームの存在感がやたらと強いという、固い感じの映像が更に抒情を封印しているように思った。
 アンナは仕事で移動をしているので旅行というわけではないのだが、風景の殺風景さは彼女が観光客でも地元民でもない、一貫して「よそ者」であることを際立たせているように思った。アンナの移動はおおむね一人で行われる。その土地土地で同行者がつくこともあるが、決して打ち解けた間柄というわけでもなさそうだ。アンナと彼女が会う人たちとのやりとりは、特に楽しそうではない。表層的なお義理の会話という雰囲気が強く、(セックスをするような相手であっても)心が通っているという感じがしないのだ。母親との会話はさすがに少し親密ではあるが、立ち入った話になろうかというところで、踏みとどまってしまう。また、おそらく立ち入った話もしたであろう旧友とはずっと会えない・電話もつながらないままだ。アンナの一人きりさが際立っていく。
 ではアンナは孤独なのか、それが辛いのかというと、そういう風にはあまり見えない所が面白い。彼女は「一人」な生き方をする人であって、そこにそれ以上の意味付けはないように思った。

カウチ・イン・ニューヨーク(字幕版)
ウィリアム・ハート
2015-03-15


『匿名作家は二人もいらない』

アレキサンドラ・アンドリューズ著、大谷瑠璃子訳
 ニューヨークの出版社で働くフローレンス・ダロウは、ベストセラー作家モード・ディクソンのアシスタントとして雇われる。ディクソンは本名も住まいも伏せられた覆面作家で、実際の彼女を知る人はエージェントくらいだった。最初は憧れのディクソンと一緒に働けて張り切っていたフローレンスだが、徐々に作家になりたいという野望を膨らませていく。
 本(unpisによるカバーイラストがデザイン性高くてなかなかいい)の帯に「息もつかせぬどんでん返しの連続!」とあるのだが、ミステリを読みなれている人、いやミステリに限らず小説を読みなれている人にはそれほど「どんでん返し」な印象はないのでは。むしろ予定調和と言ってもいいくらいの予想の裏切らなさなのだが。慣れている人ならああこれはあのパターンね…とすぐに察しがつくだろう。しかしそれでも「息もつかせぬ」小説ではある。自分の予想が合っているのか気になって先を先をと気がせいてしまうのだ。また、フローレンスの脇の甘さ、見込みの甘さにはハラハラさせられ、目が離せない。
 フローレンスは愚かかもしれないが、何となく嫌いになれない。彼女はちょっと文章を書くのが上手くて文学好きではあるが、凡そ凡庸で「持っている」人にはかなわない。この「持っている」が才能の有無だけならまだ諦めがつくのだろうが、生まれた環境で「持っている/いない」の命運が分かれてしまうという残酷さが染みる。地元では自分が一番クールでスマートだったのに元同僚らとの会話についていけなかったショックや、自分の洗練されてなさを目の当たりにした惨めさが刺さってくるのだ。彼女の野望がどのように形になっていくのかという所よりも、その根っこにあるものの方が印象に残る。

匿名作家は二人もいらない (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アレキサンドラ アンドリューズ
早川書房
2022-02-16


あのこは貴族 (集英社文庫)
山内マリコ
集英社
2020-07-03


『アフター・クロード』

アイリス・オーウェンス著、渡辺佐智江訳
 恋人クロードと喧嘩別れし彼のアパートを追い出されたハリエット。真夏のニューヨークをさまよう彼女は、何とか状況を持ちなおそうと悪戦苦闘するが、さらなる泥沼にはまっていく。
 冒頭の「捨ててやった、クロードを。あのフランス人のドブネズミ」という一文が最高なのだが、読み進めるうちに実はハリエットは捨てたのではなく捨てられた側だとわかってくる。ハリエットの一人称語りなので、実際の関係とハリエットが認識している関係にずれがあり、目くらましになっているのだ。彼女はクロードの元に転がり込んでいる身で、彼との間に愛があったのかどうかも怪しい。ハリエットはクロードに惚れており未練たらたらなのだが、セックスの相手として、家事を担う労働力として彼に利用されていたという側面の方が大きそうだ。
 ハリエットは気が強く頭の回転も速い。決して「弱い女」というわけではなく一見すごく戦闘力が高そうなふるまいだ。周囲に噛み付き喧嘩を売りまくり、絡んでくる奴には性別・人種・宗教を踏み倒してを踏み倒して、ある意味フェアに激しく反撃するものの、悪い方向悪い方向へと進んでいく。強さを持っていてもある枠組みの中から抜け出せない苦しさに何度もぶち当たる。本人は自衛のつもりなのだろうが、土壇場で男性の庇護を求めてしまう、それによってまた搾取されてしまうという悪循環になっていくのが大変辛い。地獄めぐりのようなのだ。愛されたい、大事にされたい、信頼しあいたいという思いが彼女を地獄に連れて行ってしまうのがやりきれない。
 なお序盤、クロードと一緒に鑑賞してハリエットが酷評するキリストが主人公の映画、パゾリーニっぽいなーと思ったら本当にパゾリーニ作品がモデルらしい。

アフター・クロード (ドーキー・アーカイヴ) (DALKEY ARCHIVE)
アイリス・オーウェンス
国書刊行会
2021-09-18


ファットガールをめぐる13の物語
モナ・アワド
書肆侃侃房
2021-05-14


『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』

 ブリュッセルのアパートで学生の息子と暮らしているジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)。家の中を片付け、買い物に出かけ、料理をし、息子の帰りを待つ。毎日平凡な暮らしを繰り返す彼女の生活を映し続ける。監督・脚本はシャンタル・アケルマン。
 シャンタル・アケルマン映画祭にて鑑賞。アケルマン作品を見るのは初めてなのだが、世界に衝撃を与えたというのもわかる。200分という長尺なのだが凄みがあって目が離せない。定点カメラ的にアパートの中に複数カメラを設置して、固定カメラのまま全編撮影している。そのせいか、ジャンヌを観察しているという感じが濃厚で、対象との距離感、クールさを保っている。ただ、観察している=対象の内面が説明されることはないので、ちょっとした行動や身振りから内的な状況を推し量ることになり、日常のルーティンワークが繰り返されているだけなのに妙に不安・不穏なのだ。多分こうだろう、という鑑賞者の推測を拒むところがあるのだ。この時間帯は多分あれをやっているだろう、という思わせぶりな部分も、終盤でやっと明示され、一気にラストへなだれ込む。
 ジャンヌは毎朝定時に起きて、部屋の空気を入れ替え、コーヒーを淹れて朝食をとり、昼食の後に買い物に出かけて、帰ったら夕食を作り、食後は息子と一緒に散歩に行く。毎日同じルーティンで生活しており、ご近所との会話で1週間の夕食のメニューのルーティンも決まっている様子がわかる。基本的にイレギュラーなことはやろうとしないし得意ではないらしい。そんな彼女の行動に乱れが出ると、妙に気になる。コーヒーがなぜか不味い、ジャガイモのゆで方に失敗したなど些細な事ではあるが、何か不穏な予兆を感じてしまうのだ。ジャンヌの料理する様、室内を移動する様が毎日こういうことをこなしている人としてのもの、動きが身に染みついた感じのするもの(逆に赤子のあやし方は様になっていないので印象残る)なので、余計にそう思うのだろう。繰り返しとその中でのちょっとしたずれの積み重ねの果てにあるものがあれか!という最後の驚きを引き出すのだ。動きの積み重ねと長さが生む効果の計算が非常に上手いと思う。映画は時間の芸術だということを実感した。
 日常が日常のまま唐突にとんでもないことが起きるというのは、不条理劇のようでもあるが、よくあることだという気もする。人間、それぞれに自分の中の域値みたいなものがあって、たまっていくものがその値を超えると何が起きる自分でもわからないのだ。

囚われの女 [DVD]
クロード・ピエプリュ
IVC,Ltd.(VC)(D)
2013-11-22


ブルジョワジーの秘かな愉しみ [Blu-ray]
フェルナンド・レイ
KADOKAWA / 角川書店
2018-07-27



『(見えない)欲望へ向けて クイア批評との対話』

村山敏勝著
 規範が作用する場から見えない欲望を引き出し、新たな解釈を与えるというクィア批評。英文学の様々な古典やセジウィック、ジジェク、バトラーらの理論を元にクィア批評の現在までの流れとそのあり方、それを用いてどのような思考の展開が可能なのか論じていく批評集。
 クィアとは何ぞや、ということがこれまでぴんときていないままクィア批評を目にすることも多かったのだが、本著によるとざっくりと(性的な)規範からの逸脱であり、異性愛/同性愛という二分法自体への批評にあたる概念ということになるだろうか。セクシャリティが基盤となって発生した概念なのでクィア批評もセクシャリティなし、というかセクシャリティの規範なしには成立しないことになるのだろうか。現在はセクシャリティのマジョリティ、マイノリティの差異が社会の中にあるが全部フラットな状態で「規範」が希薄になった時(そういう時は多分こないだろうが。異性愛/同性愛という対立項があっても同性愛の中でもまた別の規範が生まれるわけだし。規範はグループの中で延々と生じていく)、クィア批評って成立するのだろうかということをちょっと考えた。
 それはさておき本著、私には少々荷が重かったな…やはりラカンもジジェクもセジウィックも通過していない者には高いハードルだったか。とは言えクィア批評という視点で古典文学を読み直すというのはやはり面白い。新しい概念が出てくると思考の飛距離が伸びるものなんだなと。その思考が人間のセクシャリティから離れられない故に生まれたものだという所がまた奇妙に思える。


<女>なんていないと想像してごらん
ジョアン・コプチェク
河出書房新社
2004-07-21




『絵画の政治学』

リンダ・ノックリン著、坂上桂子訳
 フランス19世紀絵画を対象として、美術における政治的なものをどのように読み解き、考察するかを論じた1冊。取り上げられるのはクールベ、マネ、ドガ、スーラなど。フェミニズムを一つの起点とし美術史を読み解く。
 クールベのアバンギャルド性や、ピサロの作品の政治性、またヨーロッパ/オリエントという構造の美術への反映やドガとドレフュス事件の関係など、どれも読みごたえがある。本著は「美術史を他者性の視点から考える」ことを目指しているというが、特にヨーロッパに対するオリエント、男性に対する女性という要素には、他者性の問題がくっきりと表れている。植民地政策時代であり、男性優位の時代であることを描き手(と鑑賞する側)がどの程度自覚していたのかが問われる。ここが希薄だと、対象をよく観察しているようでいても「他者」が自分の延長上、自分の為の装置にしかならないのでは。表現の場では本当に気を付けないとならないとならない部分だろう。
 本著の表紙にも使われている、スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を反ユートピアという視点から読み解く章は新鮮だった。「グランド・ジャット島の日曜日の午後」は一見牧歌的だが妙な生気のなさというか、奇妙な印象を与える作品だと思っていたのだが、こういう読み解き方があったのかと。スーラの点描技法は印刷の仕組み、つまり大量生産の仕組みを取り入れたもので、「芸術」品の唯一性に対する批評的態度ともいえる。作品が発表された当時からそういった見方と批判が出ていたそうで、なるほどと。アートというと、完成のままに見ればいいとか、アートに政治を持ち込んでほしくないという人もいるだろうが、意図の度合いはどうあれ歴史的・文化的な背景は作品に反映され、それは政治的なものに繋がる。感性のままに鑑賞するというのも一つの楽しみ方だが、それだけだと重要な要素を見落としがち(当時の文脈で見ると作家が明確に読み取り方を意図していることもあるので)だなとつくづく思った。教養大事…。一見牧歌的で政治とは無縁そうなピサロやスーラの作品にかなり攻めた意図があったりするのだ。
 なお、ドガが反ユダヤ主義にはまっていたと知り、ちょっとショック。ハマったとみられる経緯が現代の嫌韓・中やネトウヨと似たようなもので、人間の心理って本当に100年200年くらいじゃ変わらないんだなとがっくりした。

絵画の政治学 (ちくま学芸文庫)
リンダ・ノックリン
筑摩書房
2021-12-13


イメージを読む (ちくま学芸文庫)
若桑 みどり
筑摩書房
2005-04-01




『パリ13区』

 コールセンターで働くエミリー(ルーシー・チャン)はルームシェア相手を募集中。応募してきたのは高校教師のカミーユ(マキタ・サンバ)。エミリーはカミーユをセックスフレンドとしても受け入れる。32歳で大学に復学したノラ(ノエミ・メルラン)は金髪のウィッグを着けてパーティーに出るが、その姿がポルノ女優のアンバー・スウィートに似ていた為に本人だと思い込まれてしまう。監督はジャック・オディアール。オディアールと、セリーヌ・シアマとレア・ミシウスとの共同脚本なことでも話題の1作。
 先日見た『カモン カモン』に引き続きモノクロ映画(しかも都市の遠景から始まるという共通点も)なのだが、同じモノクロでも『カモン カモン』とは質感が全く異なり、こういう所が映像の面白さだなと思った。本作のモノクロはいたってクール。全体的に温度・湿度を下げる効果になっている。ノスタルジックな『カモン カモン』のモノクロに対し、見ている側を少々突き放した印象だ。
 題名にもなっているパリ13区に登場人物たちは暮らしているが、この地域は再開発地区で、高層住宅(高級マンションというより団地的な雰囲気)が立ち並んでいる。移民も多いそうで、エミリーは台湾移民一族であることが作中で言及されている。彼女のご近所さんにはアジア系移民が多い様子も垣間見えた。また、ノラは移民ではないが元々パリに暮らしていたわけではなく、復学の為にボルドーから出てきたいわば「上京」組。外部からやってきた人たちが作り上げた生活圏としてのパリが描かれている。アイコン的な「パリ」よりかえって等身大で親しみを感じる所もあった。高学歴だが職がないエミリーの苦労が身につまされる人も多そうだ。
 エミリーとカミーユは自分の欲望に率直だ。しかし率直な人同士であっても、あなたの欲望と私の欲望は違う、ということが全編通して描かれているように思った。だから孤独を感じるし、欲望の対象に対して過剰なものを望んでしまう。片思い状態のエミリーはともかく、カミーユの望む恋人像はそれ無理じゃない?自分に都合よすぎない?というもの。彼はその理想をノラに(一方的に)見出して夢中になるわけだが、ノラが彼女自身の欲望と向き合うとその理想は崩れ、2人の関係も変わってしまう。
 ノラが被害を受ける性的な揶揄・中傷はひどいものなのだが、これもまた自分の欲望を勝手に対象に投げつけるという行為だろう。それが気軽にできてしまうネット、SNSの弊害はやはり大きい。ノラが受けた被害は(彼女が「一発かました」とはいえ)結局そのまま放置されているので、もやもやしてしまう。

キリング・アンド・ダイング
トミネ,エイドリアン
国書刊行会
2017-05-25


サマーブロンド
エイドリアン トミネ
国書刊行会
2015-09-10



 
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